天下統一を目前に控えた織田信長は、
本能寺の変で突然の死を遂げた。
最期まで自ら槍を取り戦った信長の人生は
命知らずの破天荒なものだったのか?
信長は死をどのように捉えていたのか?
そして、ついに見つからなかった死体の行方は?
未だ謎多き信長の人生と死に迫る! 

信長の法事と法名の真実

 本能寺の変の11日後に山崎の戦いがあって、光秀が最期をとげる。そして6月27日、織田家の重臣が集まって、変の後始末についての話し合いが行われた。いわゆる「清須会議」である。

 この会議において羽柴秀吉が、弔い合戦の戦功を背景に、終始会議をリードする。まず、物の清濁もわからぬ幼児三法師(信忠の嫡男)を織田家の家督に据える。次に、欠国(領主のいなくなった地域)の分配でも畿内に広域にわたる新領土を手に入れた。

 この後、秀吉の天下取りに向けての動きが始まる。ライバル柴田勝家追い落としのため、ほかの織田家臣の取り込みにかかるのである。ある程度競い勝つ自信がついたところで、今度は自分が信長の実質的後継者だということをアピールする手段に出た。

 10月15日、秀吉は自分が喪主になり、京都大徳寺において信長の葬儀を大々的に行ってみせたのである。遺骸はないので、棺の中には沈香を用いた信長の像が納められていたという。この後の信長の法名は、次のように付けられた。「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」「相国」は太政大臣のこと、「一品」は一位である。また、「巌」は織田弾正忠家の法名の通字である。信長らしい法名といえる。

 ところがそれ以前には、信長は「天徳院殿」と呼ばれているのである。これは『言経卿記』の同年9月2日条から見えるので、外部の者にも知られた法名だったわけである。同月11日の柴田勝家の妻お市による百日忌、あるいはそれより前、8月18日の信長乳母(養徳院)による法事の時の記録によると、信長の法名全体は次の通りだったようである。「天徳院殿二品前右相府龍巌雲公大居士」

 二位が一位へ、右大臣が太政大臣へと格上げされたとはいえ、秀吉が勝手に信長の法名を変えてしまったわけである。