強すぎる承認欲求は現代に特有の問題とされる。つまり、自分の存在を他者に認めてもらいたいという願望が高まって、とにかく目立とうとして悪事を働いたり、自尊心が少しでも傷つけられると過剰に他人を攻撃したりしてしまうという現象だ。
「私以外、私じゃないの」。そんな自己に固執する現代人にとって、含蓄ある生き様を示してくれるひとりの僧がいる。良寛だ。新潟県に生まれ、故郷を捨て、寺を捨て、何者でもないひとりの人間として生きた名僧の教えに迫る。
 

出世を厭い、天の真理に身を任せる

 良寛(1758~1831)は内気で愚直な質だった。越後国出雲崎(新潟県出雲崎町)の名主の家に生まれるが、融通が利かず、「昼行灯(ひるあんどん)」と罵られたあげく18歳で跡取りを放棄して出家。家を捨てた。
 安永8年(1799)、22歳のときに大忍国仙(たいにんこくせん)を慕って備中国(岡山県)玉島の円通寺に入門。故郷を捨てた。
 以来ひたすら禅の修行に励み、33歳で印可を受けた。だが、国仙和尚の逝去を機に諸国行脚に出る。国仙和尚は良寛のために小庵を残したが、そこに留まることはなく、寺を捨てたのである。
 それから故郷の越後に現われるまでの5年間の事績はよく分かっていない。その間の消息を伝えるという唯一の記録には、土佐(高知県)の山麓の庵で、青白くやせこけ、坐禅するでも眠るでもなく、じっと孤独と向き合う良寛の姿が描写されている。
 すでに生家は傾いていた。父は自殺を図り、弟もその後を追っていた。跡を継いだもうひとりの弟は、公金をめぐる訴訟などであえいでいた。そんななかでの帰郷だった。自死した父の運命、没落する一家の無情を引き受け、あえて故郷という針のむしろに身を置いた。
 良寛がみずからの境涯を記した漢詩にはこのようなことが書かれている。
「立身出世をいとい、天の真理に身を任せる。懐にはわずかな米、炉端に一束の薪あるのみ。悟りか迷いかなどと問う者もおらず、世俗のしがらみも知らない。夜、静かに雨音を聞きながら、草庵の中で両足を伸ばすだけ」
 僧にあらず、俗にあらず――。
 ただの無一物となった良寛は、国上山(くがみやま)中腹の庵に居を構えた。そこにはたった一個の鉢があるだけだった。良寛はその鉢で煮炊きをし、食器とし、顔や手を洗った。そしてそれを抱えて托鉢に出かけ、お布施の米が5合になったら庵に帰った。このため、その小庵は五合庵と名付けられた。

 何者かであろうとする心を捨てる

 師の国仙和尚は、良寛に印可を与える際、こんなメッセージを送っている。
「良や愚の如く 道転(みち・うた)た寛(ひろ)し謄々(とうとう)と運に任せよ」
 おまえもとうとう愚者となったか。されば真如の大道を、宿命のままに悠々と歩め――そういう意味だろう。大愚良寛たるゆえんである。
 人の世の無常を知った。立場やしがらみがとりまく世俗に真実はなく、高邁な教説を垂れる坊主の世界もひと皮むけばもうひとつの俗世だった。
 家を捨て、郷土を捨て、寺をも捨てた。そして、何者かであろうとするこころを捨て去った。良寛はどこにも所属せず、何も為さず、何も持たなかった。漢詩や詩歌に通じ、書に秀でていたが、漢学者にも歌人にも書家にもならなかった。のみならず、経も読まず、説法もせず、葬式もしなかった。
 何もかも捨てた先に残ったのは、「天の真理に任せる自分」だった。
 あるとき、床下で育ったタケノコが床板を持ち上げているのに気づいた。良寛はすぐさま床板を外し、竹の成長を見守った。ついに天井に届くと、今度は屋根を壊した。おかげで雨や雪が降り込んだが、気にせず夜は星を仰ぎながら過ごした。

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