荒廃する京へ将軍が200年以上ぶりに上ることになった。時の将軍家茂を警護するため、幕府は江戸で浪士組を募集。これを聞いた近藤、土方、沖田らが集まり、最強の剣客集団が誕生することになる!

多摩郡にいた土方・井上が近藤ら試衛館組と出会う

 浪士組の計画は、庄内出身の活動家清河八郎が生み出したものだった。将軍徳川家茂の上洛に先がけ、関東一円の浪士などを京都に送り、かの地で治安対策に当たらせるというものである。関東での浪人対策と、京都の不逞浪士対策を一挙に推進するこの計画は「類をもって類に投じ」(『根岸友山履歴言行』)る策略と見なされた。
 幅広い知己らと国事活動を推進していた清河は、前年、日本橋で幕府の密偵を斬殺したことで追及を受けていた。やがて清河は懇意の幕臣山岡鉄太郎を通じ、幕臣松平主税介を通して、幕府に浪士組の献策への道筋を付ける。講武所で幕臣子弟に剣術を指南していた主税介は、徳川家康の六男忠輝の末裔で、大変な格式を持っていた。
 熟議の末、文久2年(1862)12月8日、幕府は浪士募集を決定する。前後して、国事活動などで獄中にいた浪士らの大赦も告知された。清河の罪も雪がれたのである。
 文久3年1月初旬より、公募は開始された。清河の同志で、人望の厚かった池田徳太郎と石坂周造は「関八州尽忠報国有志探索」と称し、手分けして北関東一円などを回り、上洛有志を募った。また、山岡鉄太郎や松平主税介ルートから、応募者を募る廻状が江戸近辺に回った。市ヶ谷甲良屋敷にあった天然理心流撃剣道場の試衛館にも、廻状が届いた。
 道場主の近藤勇は、武蔵国多摩郡上石原村(現調布市上石原)の出身である。当時、多摩郡一帯の過半は天領だった。将軍家への忠誠心にはなみなみならぬものがある。
 近藤の道場には、折に触れ、多摩郡で練磨する門人たちが訪問してきた。石田村(現日野市石田)の土方歳三もその一人である。
 1月某日、土方は恩義を受けている小野路村(現町田市)の名主小島鹿之助に、江戸から届いた浪士募集の情報と、日野宿に住む井上源三郎から告知された募集に関連すると見られる情報を「お年玉」と例えて報告した。
 浪士募集の告知はさまざまな形で彼らの耳に入ってきたらしい。
 山岡鉄太郎が池田徳太郎に授けた、募集時に所持させた証書には「尽忠報国の志を元とし、公正無二、身は強健、気力荘厳の者、貴賎老少に関わらずお召し寄りにあいなり候……」とある。漠然とした文言ながら、池田らが巡った北関東からは、当初50名ほどと見られていた予想をはるかに上回る応募者が出た。
 もちろん近藤勇や土方歳三も、この募集を受け入れた。王城の地で将軍を警護するという目的は、天領に育った彼らには、この上なく崇高なものと捉えられていたことだろう。
 試衛館には門人や食客らが寄留していた。天然理心流の師範代沖田総司。諸流派を経て、近藤の門人となった山南敬助。神道無念流の永倉新八と北辰一刀流の藤堂平助。さらに寄留は確認されないものの、彼らに近かった種田流槍術の原田左之助。こうした一同も近藤に応じて浪士組に身を投じた。もう一人、天然理心流とみられる斎藤一は、前年に道場を離れていたが、居住していた京都で、彼らと再会することになる。
 多摩郡を生活のベースにしていた土方歳三と井上源三郎も、ともに浪士組に応募した。
 2月4日と5日、応募者らは小石川伝通院に集合し、組織編成と約定を伝えられた。
 池田徳太郎は、江戸出立直前に記した書状に次のように認めている。「名は浪士とあい唱え候えども、その実義民に御座候。旬日の間に速やかに二百人余りも集まり来たり候も、関東の勇武、古の遺風を観るに足り申し候……」
 総勢230余名の「義民」たちは2月8日、中仙道を京都に向けて出立する。