織田信長の天下統一への道は、家督を継いだ19の年より、
本能寺の変で倒れるまで、合戦に継ぐ合戦の連続であった。
ここでは、信長の軍事の天才ぶりを示す戦略や戦術を
考察しながら信長の合戦の軌跡をたどる。 
現在の姉川
姉川の合戦
義弟の裏切りに、怒りに燃える信長。
その行動は迅速だが、しかし冷静であった。
軍備を整え、浅井の本拠地である小谷城に迫る。
一帯が血に染まったという激戦の真実を追う

  浅井長政の謀反によって、一旦兵を京都に戻した織田信長は、あらためて長政討伐に動きだした。元亀元年(1570)6月17日、2万の大軍を率いて岐阜城を出陣し、21日から浅井領の村々を放火してまわっている。信長は、長政側に越前の朝倉義景から援軍がくることを予想し、同盟者の徳川家康に援軍要請をし、家康は5000の兵を率いて出陣してきた。
 一方、その頃の長政の最大動員兵力は8000で、それに朝倉義景から、一族の朝倉景健を総大将とする1万が援軍として送られてきた。こうして、6月28日、織田・徳川連合軍2万5000対、浅井・朝倉連合軍1万8000が、姉川を挟んで対陣した。姉川の戦いである。
 信長は長政の軍勢と対峙し、援軍は援軍同士、家康は景健と対峙した。『信長公記』に「卯刻、丑寅へむかつて御一戦に及ばる」とあり、午前5時から7時にかけて戦いがはじまった。徳川軍と朝倉軍との間で衝突がはじまったのが開戦の合図となり、ついで、浅井軍の先鋒磯いそ野の員昌が姉川を渡って織田軍の第一陣坂井政尚隊に攻撃をはじめ、浅井・織田両軍の間でも戦闘がはじまった。

<信長戦記 第2回 姉川合戦②に続く>