仏教界の巨星・空海の途方もない行動力の源泉とは

弘法大師のめまぐるしい後半生 

  大同4年(809)に和泉国(いずみのくに)の国司(こくし)に出された太政官符(だじょうかんぷ)の写しが残されている。唐留学を早めに切り上げて帰国した、空海(弘法大師)の入京を許すというものだ。
 当時、空海は36歳。62歳で入定(死去)しているので、ちょうど人生半ばということになる。しかし、この後半生がめまぐるしい。
 弘仁3年(812)、高雄山寺(たかおさんじ)で最澄ら190余人に灌頂(かんちょう=頭部に水をそそぐ密教儀礼)を行う。
 弘仁7年、高野山の下賜が認められる。
 弘仁14年、東寺を給与される。
 天長5年(828)、庶民向けの学校、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)の創建。
 承和2年(835)、宮中で後七日御修法(ごしちにちみしほ)を行なう。同年、入定。
 もちろん、これだけではない。各種の祈祷・法要のほか、この身のままで成仏できるという即身成仏を理論だてた『即身成仏儀(そくしんじょうぶつぎ)』や、密教の優越性を示した『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』、『般若心経』を密教的に解釈した『般若心経秘鍵』など多数の著作も残している。また日本中に空海の遺跡とされる土地・寺が多数残っており、その足跡は目を見張るものがある。
 こうした活躍は、空海が仏教以外にも文芸、組織経営、土木技術といった多彩な才をもっていたことを表わしている。朝廷や貴族たちはその才を認め、次第にそれに頼るようになっていった。建設が進んでいなかった東寺の整備が空海に委ねられたことは、その最たるものといえる。
 空海が唐よりもたらした純粋密教への期待も大きかった。悟りの教えである仏教に真言(しんごん)・陀羅尼(だらに=呪文)といった呪術的要素を取り込んだ密教は、当時の人々にとって最先端科学のようなものであった。鎮護国家の法会(ほうえ)から病気平癒の祈祷まで各種の要望が寄せられ、それらと並行して高野山での伽藍建設も進めなければならなかった。
 空海は何を支えにして、これほどの活動を行ったのだろうか。そのカギは無名の修行時代にあるようだ。

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