織田信長の天下統一への道は、家督を継いだ19の年より、
本能寺の変で倒れるまで、合戦に継ぐ合戦の連続であった。
ここでは、信長の軍事の天才ぶりを示す戦略や戦術を
考察しながら信長の合戦の軌跡をたどる。 
現在の姉川
姉川の合戦
義弟の裏切りに、怒りに燃える信長。
その行動は迅速だが、しかし冷静であった。
軍備を整え、浅井の本拠地である小谷城に迫る。
一帯が血に染まったという激戦の真実を追う 

  徳川・朝倉軍の戦いでは、はじめ、軍勢の多い朝倉軍が優勢であった。だが家康は、榊原康政隊を姉川下流で渡河させ、朝倉軍の側面を衝かせる。いわゆる「横槍」である。この榊原隊の側面攻撃は、朝倉側では全く予期していなかったものとみえ、にわかに崩れはじめる。
 織田・浅井の戦いでは、浅井軍が緒戦は優勢で、信長はこのとき13段備えが11段まで崩されたといわれている。徳川方史料である『四戦紀聞』の「江州姉川戦記」に、「信長の先陣は、浅井勢に敗北し、本陣危く見えしかば……」とか、「浅井が勢は、信長の旗本まで至らんとす」などと描写されており、浅井軍が善戦していたことはたしかなようである。
 時間は正午ごろといわれている。朝倉対徳川の戦いの中で、朝倉方の勇将として名の知られた真柄十郎左衛門直隆が討死したことで、朝倉軍の勢いがとまり、姉川畔から後退してしまったのである。これにより、浅井軍の右側面が無防備となった。織田軍はそれを見逃さなかった。手薄になった浅井軍の右翼をねらって稲葉一鉄隊が突きかかり、また、それまで小谷城の支城横山城の監視にあたっていた氏家卜全・安藤範俊らがそれに加わったため、浅井軍は虚を衝かれ、勢いがとまってしまった。そればかりか、信長本陣近くまで攻め込んでいたにもかかわらず、にわかに崩れはじめ、小谷城めざして敗走する事態となり、織田・徳川連合軍の勝利で終わっているのである。
 信長の軍勢は、逃げる長政の軍勢を追って小谷城に迫ったが、城攻めはさせず、兵を引かせている。小谷城が天嶮の要害に築かれた山城で、簡単には落とすことができないと信長が判断したからである。
 信長は、浅井の息の根をとめることはできなかったが、小谷城に追い込めたことで目的を達したとし、浅井方から奪った横山城に木下秀吉を入れ、3年もの長期におよぶ小谷城包囲の戦いに臨んでいるのである。

<了>