度重なる迫害

 日蓮は貞応元年(1222年)、安房国東条郷片海(千葉県鴨川市)に生まれた。12歳で仏門に入り、修学を重ねる。
 日蓮が『法華経(ほっけきょう)』の教えに目ざめたのは、比叡山に遊学中のことであった。諸大寺を巡って教理を研究するなかで、『法華経』こそが究極の教えであり、その題目(「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」)に経の功徳が集約されていることを確信したのだ。
 そして、32歳で故郷安房国に戻り清澄寺でこの教えを説いた。これをもって日蓮宗の立教開宗とするが、迫害との戦いの日々も、このときに始まったのである。
 鎌倉新仏教の祖師は、多かれ少なかれ比叡山などの弾圧を経験している。しかし、日蓮ほど苛烈な迫害を受けた者はいない。大きなものだけでも4つの法難に遭っている。
 最初は文応元年(1260)、鎌倉の松葉ヶ谷の草庵を念仏信徒(浄土宗)に襲われた(松葉ヶ谷法難)。
 翌、弘長元年(1261)には、念仏信徒たちの告訴により、伊豆の国へ流罪とされた(伊豆法難)。
 文永元年(1264)には、母の見舞いのために故郷に戻ったところで地頭の東条景信に襲われ、頭を斬られ、左の腕を折られた(小松原法難)。
 さらに文永8年には平頼綱によって江の島の近くの龍口で斬首にされそうになった(龍口法難)。斬首は光り物が現われるという奇跡が起こって中止になったものの、そのまま佐渡へと配流となった。

弾圧を恐れることは慈悲に反する

 こうした法難に繰り返し遭ったのは、日蓮が歯に衣を着せない痛烈な批判を幕府や既成宗派に加えたからであった。だが日蓮は、誤った教えを黙認することは謗法(ほうぼう=仏の教えを誹謗すること)という重い罪になると考えていたので、妥協するわけにはいかなかったのだ。
 日蓮によると、当時の日本は「法華経に背き釈迦仏を捨てる」(『一谷入道御書』)という状況であったが、日本国でそのことを認識しているのは、日蓮ただ一人という有様であった。
 もしこのことを公言すれば師や家族に王難(支配者による弾圧)があるだろうが、黙っているのは仏教者の基本的な徳である慈悲に反する。王難があるからといって退くようなら、初めから言わない方がいい。
 迷った末に日蓮は、言おうと決断した。
『法華経』宝塔品に、「『法華経』の教えを受け継いだり説いたりすることに比べれば、足の指で全宇宙をつかんで投げたりする方が楽だ」という喩えが述べられているのを読み、日蓮は強い菩提心(悟りを得ようと思う心)を持つに至った。そして、どんなことがあっても諦めることなく布教を続けよう、と日蓮は誓ったという。

心の強さは自分を信じる気持ち

 このように反発覚悟の布教活動ではあったものの、当初はこれほどの迫害に至るとは思っていなかったのであろう。故郷の清澄寺で初めて説教を行ったときや、北条時頼に『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』を呈したときなどは、最後は認められるものと期待していたに違いない。
 だが、結果は念仏信徒たちの襲撃であり、幕府による流罪であった。少しずつ理解者は増えていったとはいうものの、布教を続ければ続けるほど迫害は強くなる一方であった。正しいことをしているのになぜだと、さすがの日蓮も悩んだことだろう。
 日蓮は、その理由も『法華経』の中に見出した。
『法華経』は、その教えを信じる者は多くの敵をもつが、釈迦の滅後(没後)はさらに激しい攻撃に遭うと説いている。
 日蓮はこれを自分に対する迫害の予言だと受け取った。そして、自分こそが『法華経』の布教を釈迦から託された上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)の化身であると信じるに至ったのである。
 この確信により日蓮は、どんなに迫害を受けても決して諦めない強さをもったのである。さらには自分が迫害を受けることこそが『法華経』の予言の実現であり、「日蓮が難にあう所ごとに仏土なる」(『四条金吾殿御消息』)という境地にまで至ったのだ。