現在の比叡山延暦寺  
織田信長の天下統一への道は、家督を継いだ19の年より、
本能寺の変で倒れるまで、合戦に継ぐ合戦の連続であった。
ここでは、信長の軍事の天才ぶりを示す戦略や戦術を
考察しながら信長の合戦の軌跡をたどる。 

延暦寺が朝倉軍に与したとき、ついに信長の怒りは頂点に達した

 姉川の戦い後、信長が小谷城を攻めずに兵を引いたのをみて、信長の敗退と勘ちがいした勢力があらわれた。阿波の三好三人衆で、失地回復をねらって大坂まで出陣してきたのである。
 信長は三好三人衆を追い払うため大坂に出陣したが、そのとき、織田軍が石山本願寺をも包囲する態勢をとったため、危機感をもった本願寺顕如は、各地の一向宗門徒に信長と戦うよう指令を出した。これがいわゆる「石山合戦」のはじまりである。
 各地の一向一揆が蜂起する中、浅井長政・朝倉義景が攻勢に出、元亀元年(1570)9月から12月にかけて、比叡山およびその山麓を舞台に信長との間ではげしい戦いがくりひろげられた。志賀の陣とよばれている。
 八方ふさがりとなった信長は、足利義昭に泣きつき、朝廷を動かし、勅命講和という形でかろうじて危機を乗り切っているが、その志賀の陣のとき、信長は、浅井・朝倉軍に手を貸している比叡山延暦寺に対し、「味方するなら、信長分国中の山門領を還付安堵しよう」ともちかけ、「それが無理なら、せめて中立を守
ってほしい」と申し入れていた。しかも、火に包まれる延暦寺の根本中堂その申し入れの末尾には、「味方もしない、中立も守らないということであれば、利敵行為とみなし、根本中堂、山王二十一社をはじめ、焼き払う」と、攻撃もありうることを通告していた。
 ところが、延暦寺側はその申し入れを黙殺したばかりか、朝倉軍が山内の鉢ヶ峰に籠るのを容認していたのである。信長はこれを許さず、勅命講和によって、浅井・朝倉軍が比叡山を下り、軍事的に手薄となったときをねらい、翌元亀2年(1571)9月13日に焼き討ちを決行した。
 この日、麓の坂本から攻めのぼった信長軍により、根本中堂はもとより、社寺堂塔500余棟が一宇も残らず灰燼に帰し、僧俗男3000人が殺されたと言われているが、近年の発掘調査の結果、焼かれた建物はごくわずかだったのではないかとされている。
 この信長の比叡山焼き討ちの顚末を公家の山科言継がその日記『言継卿記』に記し、その中で、「仏法の破滅」という表現をしている。しかし、そのことをもって、信長の宗教への弾圧とみるのは正しくない。信長としては、「天下統一に逆らうすべての勢力を攻め滅ぼす。仏教勢力もまたこの例外ではない」というメッセージを、この焼き討ちによって内外に伝えたかったのである。しかしその結果として、さらなる信長包囲網ができあがることになる。