《連載書き下ろし再開予告》
森博嗣『道なき未知』は、月刊誌『CIRCUS』で2012年より連載第1回がスタート。第11回まで原稿は掲載されましたが、『CIRCUS』休刊に伴い連載は休止。執筆済の第12回の原稿は未公開。今回これまでの連載原稿を順次再録し、第13回からは著者が新たに書き下ろしいたします。

 

第6回 

一歩ずつしか進めない

 

兎が亀に負けるか?

 

 僕が子供の頃は、絵本といえばイソップ物語みたいな定番があった。動物が主人公のものばかりで、とにかくすべて「教訓」が仕込まれているのだ。わざわざ物語にして、絵まで描かなくても、その教訓を教えてくれたら、それで充分ではないか、と子供心に思ったものである。

 しかし、兎と亀では、兎の挑戦を自信ありげに受ける亀が変だ。兎が途中で寝ることを何故予見できたのか。亀は最初から上から目線だし。あと、猿蟹合戦では、蟹が虐められて骨折し松葉杖をついていたが、蟹に骨はないだろう、と思った。そこへいくと、蟻とキリギリスはなかなかリアルだ。キリギリスの生き方も一理あるし、蟻の博愛も捨てがたい。両者があってこそ社会は成り立つのだな、と深い。

 さて、兎に勝った亀ではないが、たしかに、足は遅くても、地道に進むことで「対等」に張り合うことは可能である。現実の仕事の多くは、それほど能力的な差が直接結果に反映しない。誰がやってもできるようにノルマや手法が考えられている。それに、要領の悪い者は残業して挽回できる。つまり、仕事という「競争」には、制限時間もないし審判もいない。こっそりカンニングしても叱られない。誰かに助けを求めることさえルール違反というわけではない。どんな手を使おうが、ゴールへたどり着けば同じだ。

 ただ、最も簡単なのは、こつこつとマイペースに前進することである。その亀方式が素晴らしいという意味ではない。兎方式も亀方式も、結果は同じ、ということである。

 

不可能が可能になる

 

 素晴らしいわけではない、と書いたものの、こつこつと進める手法で不可能だと思われたことが可能になる。これは、なかなか凄いことで、素晴らしいと感じても不思議ではない。それはしかし、不可能だと感じた、その最初の観測が間違っているだけである。できないことはない。少しずつ進めれば、ほとんどのことは誰にでも可能になる。

 ようするに、できないと予測した主原因は、能力不足ではなく、「面倒だな」と感じた自分の感情にある。駄目もとでしかたなく少しずつやっていると、そのうちその面倒を面倒だと感じない自分ができてくる。自分が変化するのだ。これは、素直に素晴らしい。仕事の結果よりもずっと価値がある。そして、こういった自分の変化を積み重ねるうちに、自分にはできる、と思える「自信」というものが育つ。

 なんでも良いから、毎日こつこつと続けていると、この自分の変化を頻繁に観察することができるし、小さな自信が毎日生まれる実感がある。べつに、大したことではない。毎日ジョギングをしても、毎日庭いじりをしても、毎日本を読んでも、なにをしても、自分に変化がある。「こんなに走れるようになった」という実感である。

 仕事である必要は全然ない。仕事なんて、人生における主目的ではない。仕事は道の一つにすぎないし、不可欠なものでもない。生きていく目的というのは、むしろ自分の変化を楽しむ方にある、と僕は感じる。

 

できないと思い込むのは自分

 

 僕はもともとは国家公務員だった。四十歳に近づいた頃、できそうだな、と思って小説を書いてみた。それまで、そんな趣味もないし、書いたこともなかった。だいたい、小説なんかほとんど読まない人間である。それでも、書いてみたら書けた。家族に見せても誰も感心しないので、出版社に送ってみたら、半年後には作家になっていた。

 では、作家になるなんて考えてもいなかったのか、というと全然そうではない。書いたのは、作家になるためだ。仕事として書いた。自分が書きたいものなどないから、人が読みたい(と想像できる)ものを書いた。だから、計算どおりに作家になったのである。「夢にも思わなかった」なんて言う人がいるけれど、あれは謙遜だ。みんなちゃんと考えて努力をしている。本気にしてはいけない。自分がなりたいものには、よく考えて、今すぐにできることから始めて、一歩一歩進もう。

 今は公務員も辞め、作家もほとんど引退してしまって、自分の好きなことばかりしている。これがしたいから、一所懸命働いてきた。ときどき「恵まれていますね」と言われるけれど、誰かから恵んでもらったのではない。神様はいない。自分で自分に恵むしかないのである。宝くじに当たるよりは簡単だ。「私には無理だ」と自分に言い聞かせて我慢ができる人は、そのままである。四十歳になっても、僕は「作家になれる」と思った。少しでも自分を疑ってしまえば、新しい道は途絶えてしまうだろう。

 

これが書斎から見える風景。積雪は 30 cm ほど。 小さな小屋みたいなものは、庭園鉄道の駅。