「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

死亡日の疑問から浮上した暗殺説

 

 のちに桶狭間(おけはざま)の戦いで織田信長に討たれる今川義元(よしもと)。彼の運命を一変させたのが、天文5年(1536)に発生した大事件だった。この年3月17日の出来事について、関連史料は次のように記す。「今川氏輝(うじてる)・同彦五郎(ひこごろう)同時に死す」(『高白斎記(こうはくさいき)』)、「駿河の屋形御兄弟死去めされ候」(『妙法寺記(みょうほうじき)』)。


 今川家の主であり義元の長兄にあたる氏輝と、その弟・彦五郎が同じ日に亡くなったというのだ。氏輝に関しては、生来(せいらい)病弱であったという推測があるうえ、鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の僧の日記『快僧都記(かいげんそうずき)』に「氏輝殿の病気の祈き祷とうをしたが、17日に亡くなってしまった」という記録が残されているために病死とも考えられるが、その後継候補と考えられる弟まで同日に死ぬというのは、どう考えても尋常ではない。

 

 実はこの直前、今川家は西の三河方面から北へ目標を転じて同盟者の北条家とともに甲斐の武田領に侵攻したが、戦況は不利だった。このため、今川家内部ではこのまま武田との戦いを続けるか、ふたたび西を志向するかの意見の対立があった。


 直後、出家していた氏輝・彦五郎の同母弟・梅岳承芳(ばいがく・しょうほう)(※のちの義元)と、異母弟の玄広恵探(げんこう・えたん)との家督をめぐる争いが「花倉(はなくら)の乱」と呼ばれる内乱に発展するのである。
<次稿に続く>