「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

不自然な一致の裏に潜む武田の謀略

 

 梅岳承芳(のちの今川義元)と玄広恵探の間で起きた、今川家の家督争い、「花倉の乱」。


 その内乱の結果、先の武田攻めの先鋒として大きな犠牲を出した一族であり、恵探の母の実家にあたる重臣の福島氏が、恵探ともども攻め滅ぼされてしまう。


『妙法寺記』にはこれを「北条氏綱(うじつな)の人数が攻め殺した」とあるのだが、これはあくまでも武田家側の記録。北条家によって滅ぼされた福島一族の出身といわれる北条綱成(つなしげ)が、このあと北条家にかくまわれ娘までもらってその重臣となっている事、それに恵探を追い落として今川家の主となった承芳が一転して北条家と断交し武田家と同盟を締結した事から、どうも武田側が福島一族を攻め滅ぼし、その責任を北条にかぶせた可能性が高いと考えられる。


 そうすると、対武田強硬路線をとっていた氏輝と彦五郎の兄弟が「同日に死んだ」と書いた武田側の記録は、重要な意味を帯びてくる。武田家は氏輝の病臥(びょうが)による今川家の混乱を絶好の機会とし、親武田派の承芳を家督につけるべく反武田派の氏輝・彦五郎暗殺を実行した、と考えるのが自然ではないだろうか。


 こうして今川家を継いだ承芳は、義元と名乗り、ふたたび西への拡大路線をとって24年後に桶狭間へと赴く。もし氏輝や彦五郎が死なず、反武田路線が続いていたら、義元が尾張で織田信長によって討たれる事もなかったろう。
<次稿に続く>