纒向(まきむく)遺跡の中にある箸墓(はしはか)古墳は果たして卑弥呼の墓なのか?第6回。出土品や最新の測定法から、その謎に迫る。
 



『魏志』倭人伝にある、卑弥呼の死の年代

 次に、放射性炭素年代測定によって明らかとなった年代(240-260年頃)から、どのような被葬者像が考えられるだろうか。

 この年代でまず考えられるのが、『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条(ぎしうがんせんぴとういでんわじんじょう、以下、『魏志』倭人伝)に記載された卑弥呼の死に関する記事である。『魏志』倭人伝には正始8年(247)の帯方(たいほう)郡の遣使の記事の後に、「卑弥呼以て死す。大いに冢を作ること径百余歩、葬に殉ずる者奴婢百余人なり」と記載されている。また『北史』倭国伝に「正始中卑弥呼死す」と記載されている。正始が9年までであることから卑弥呼の死は正始8年(247)から正始9年(248)と考えられよう。

 先の放射性炭素年代測定による結果と照らし合わせると、卑弥呼存命中に箸墓古墳が造られ始めたことになろう。では、存命中に造られていた可能性の高い箸墓古墳が卑弥呼の墓の可能性はあるのだろうか。ここで改めて『魏志』倭人伝の記載を見てみよう。卑弥呼の墓について「大いに冢を作ること径百余歩」とある。これを素直に読む限り、卑弥呼の墓は前方後円墳ではなく円墳ととれる。一歩は六尺で、魏晋代の一尺は24.12㎝とされていること、一歩はほぼ1.45mとなり、径百余歩は約150m前後の円形の墓となる。そのため径百余歩を誇張表現ととらえ、小さい円墳と捉える考えもあった。しかし、この記載から墳形や正確な規模まで読みとろうとするのは困難である。そのため、現在では箸墓古墳の後円部径が約160mであることからこの記載を箸墓古墳の後円部と捉える考えが有力となっている。さらに、『日本書紀』にある「箸墓」に葬られた倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)が三輪山の神に仕える巫女であったという記載と、『魏志』倭人伝の「鬼道を事とし、よく衆を惑わす」という卑弥呼のイメージが似ていることから箸墓古墳の被葬者候補として卑弥呼の可能性が高い。


《果たして卑弥呼の墓なのか?箸墓古墳の謎 第7回へつづく》