先日、岐阜城のある稲葉山のふもとの織田信長居館跡から、金箔瓦が発掘されました。(http://www.chunichi.co.jp/s/article/2016021901002204.html

 27日には現地説明会もおこなわれていましたね。正室斎藤氏(濃姫、帰蝶)の御殿のものの可能性があるということで、日経新聞には

〈ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは著書「日本史」で、庭園を見た後、信長の妻、濃姫の金で彩られた部屋を訪れたと記述。市はこれを裏付け、信長が濃姫のために金箔の御殿を建てたとみている。〉

 
 とありましたが、くだんの一節はおそらく「(御殿の)二階には婦人部屋があり、その前廊は両側が中国製の金襴の幕で覆われていた」という部分だと思います。

 これですと、濃姫の御殿とは断定できませんね。ましてや、フロイスはその直前に信長が「貴殿に予の邸を見せよう」と言ったと書いていますから、その点でも濃姫御殿とするのは無理があるのでは。まぁ、記憶だけで申し上げておりますので、他に該当の記述や、現地で新たな発見があってそう発表しているのでしたらゴメンナサイ、という事で。

  そんなわけで、今から439年前の天正5年2月13日(現在の暦で1577年3月2日)は、その信長が紀州攻めに出陣した日。信長はこれに先立つ2日、雑賀の三緘(みからみ)衆と根来の杉ノ坊から寝返りの約束を受けているが、これは信長の常套手段だった。

 美濃斎藤攻めでも、北近江浅井攻めでも、のち甲斐武田攻めでも、必ず内応者を確保すると間髪入れずに出撃して動揺する敵が立ち直る前を叩いている。いわばラグビー五郎丸選手のキック前ポーズ、ルーチンのようなもの。

信長の紀州攻めの際、雑賀の鈴木孫一が拠点にしたという弥勒寺山。

 そして、この日公家の吉田兼見は「信長南方へ出陣」と日記に残したように、出陣とあいなります。その人数は10万とも15万ともいい、嫡男信忠・次男信雄・三男信孝も伴う領国全域からの動員。だが、信長は思わぬ苦戦を強いられ、ひと月後の3月21日にとりたてて戦果も得られないまま兵を収めてしまう。一応は雑賀の鈴木孫一らから詫び状を出させ、大坂の石山本願寺攻めに協力するとの言質をとってはいたが、こんなものがあてにならないのは信長自身よくわかっている。

 ではなぜ撤退したか。雑賀衆の持つ大量の鉄砲と各所に仕掛けられた巧妙な仕掛けにやられた、という事なのだが、それから8年後の天正13年、豊臣秀吉は紀州を攻め、根来・雑賀・粉河寺を蹂躙してしまう。しかも、秀吉がもよおした紀州攻めの軍勢の数は10万。信長と同じか、それより少ない人数だ。

 では秀吉の方が強かったのかというと、事はそう単純ではない。秀吉はすでに柴田勝家を滅ぼし、織田信雄・毛利輝元を臣従させ、すでに畿内に敵性勢力はいない。そのため兵力の損耗をいとわずに無理攻めする事ができたというのが大きいだろう。

 事実、初手の和泉国での合戦ですでに「人数数多損じおわんぬ」と『舜旧記』(兼見の弟の日記)にある。さらに、信長を苦しめた鈴木孫一はすでに信長に臣従し、本能寺の変後は雑賀から逃げ出すなど、秀吉の紀州攻め当時は雑賀衆の団結はもはや過去のものだったのに対して、信長は大坂の石山本願寺という大敵をひかえ、さらに武田・上杉・毛利との対決をにらんで兵を温存しなければならないハンデがあった。

一説に鈴木孫一の墓と伝わる平井孫市藤原義兼の墓(蓮乗寺)。

  よく言われる事だが、短気な反面、徹底的に無理攻めを避けて敵を効率的につぶしていく、信長一流の気長な戦略の一環だったのだ。