「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

武田家期待のホープが密告に追いつめられる

 

 武田義信(よしのぶ)は、「甲斐の虎」と呼ばれた信玄と正室の三条夫人との間の嫡男として天文7年(1538)に生まれた。

 

 天文19年(1550)の元服の際には京の室町幕府から足利将軍歴代の諱(いみな)の通字(とおりじ)である「義」を頂戴して義信と名乗ったところからも、彼が周囲から絶大な期待を寄せられていた事がわかる。なにせ彼の父・信玄ですら、当時の将軍・足利義晴(よしはる)からは通字の「義」ではなく「晴」字を与えられたに過ぎないのだから。


 同年4月には同盟国である駿河の今川義元(よしもと)の娘が輿入れし、武田家の後継者としての義信の地位はますます揺るぎないものになっていった。そんな一門のホープが、永禄10年(1567)に30歳の若さで死を迎える事になるとは誰も想像できなかっただろう。

 

 発端は、『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によれば永禄7年(1564)7月15日の事だった。この夜、灯籠(とうろう)見物と称して側近とともに傅役(もりやく)(教育係)の飯富虎昌(おぶ・とらまさ)の屋敷を訪れた義信が、夜中になってから人目に触れないように帰ったのを監察役が信玄に報告し、続いて虎昌の弟・三郎兵衛(さぶろう・びょうえ)(のちの山県昌景)が「義信様と兄は戦場での謀反を計画しています」と密告したのだ。この報告を受けた信玄は、翌年まず虎昌を自害させる。
<次稿に続く>