「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

信玄と長男の確執はどこから来たのか

 

 長男・義信の傅役だった虎昌の自害については、虎昌が信玄をないがしろにし、その悪口を言った事、義信に謀反をそそのかした事が理由とされた。一方、信玄のライバル・上杉謙信側の記録『上杉家御年譜』は永禄4年(1561)の川中島の戦いで義信がまずい戦い方をした事がきっかけで信玄との父子仲が悪くなった、としている。


 いずれにしても信玄と義信の間柄が極端に悪化していたのは間違いないが、ではその本当の理由は何だろうか。

 

 これは、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、義信の舅・今川義元(よしもと)が尾張の織田信長の攻撃を受けてあえない最期を遂げた事がすべてだったろう。以降、家運の衰えた今川家に対し信玄が野心を抱いたため、今川家出身の妻を持つ義信の立場が微妙となり、その周囲に義信と共通の利害を持つ人間たちが集まって武田家がふたつに分かれかねない状況となったのだ。

 
 虎昌に続いて、義信の家臣80人ほどが死罪あるいは国外追放の処分を受け、義信は甲府の東光寺(とうこうじ)に幽閉される。信玄としては、のちに「父子の間の事は元来別条なし」と家臣に書き送ったように、当初は義信を穏便に処分しようと考えた形跡もあるのだが、2年あまりの幽閉ののち永禄10年(1567)10月、義信は死を迎える事となる。
<次稿に続く>