「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

信玄は子殺し?非情な決断の裏事情とは

 

 信玄が義信を解放しようとしたが、牢から出る事を拒んだ義信は切腹して果てたなどと伝えられている。しかしどうもこれは怪しい。義信の死を「害卒(がいそつ)」と記す『享禄以来年代記』ほか、「殺害された」と説く『上杉家御年譜』、それに「毒によって死んだ。信玄は子殺しだ」と非難する『当代記』など、多くの史料が義信は暗殺されたとしているのだ。


 信玄は義信幽閉直後に、義元を討った織田信長の養女を4男・勝頼の正室に迎え、永禄10年には駿府の状況を調査するよう命令している。続いて「信玄様に対し奉り、逆心や謀反を企みません」という起請文(きしょうもん)を家臣たちに書かせ、「大きい事も細かい事も、下知(命令)に背いてはならない」などという軍役規定を定めた。義信の死はこの直後で、さらに松(まつ)姫ひめ(信玄の6女)と織田信忠(のぶただ)(信長の嫡男)との婚約を決定。そしてきわめつけが、永禄11年2月16日、徳川家康との間で取り交わした駿河侵攻の密約だ。

 
 信玄は、義信を頂点とする親今川派を一掃した直後から西方の織田・徳川と結び、今川領侵攻準備を着々と進めていた。そんな微妙な時期に、義信を解放する事などありえず、ましてや義信が自ら死を選ぶ理由もない。信玄としては計画の最終段階で不安要素となる親今川派残党のよりどころとなりかねない義信を処分、同時に起請文や軍役規定によって家臣団に絶対の忠誠を求め、団結を固めたのだろう。義信死後、彼の屋敷跡には毘沙門堂が建てられたという。
<次稿に続く>