浅井長政自刃の地
織田信長の天下統一への道は、家督を継いだ19の年より、
本能寺の変で倒れるまで、合戦に継ぐ合戦の連続であった。
ここでは、信長の軍事の天才ぶりを示す戦略や戦術を
考察しながら信長の合戦の軌跡をたどる。 

降伏を勧めた信長、しかし義弟・浅井長政は徹底抗戦を選んだ

 朝倉氏が滅ぼされたことにより、小谷城の浅井氏に後詰の援軍が来る可能性は全くなかった。信長は、妹お市の夫である長政を、説得によって降服させようと考えていた節がある。それは、8月27日からはじまった小谷城攻めにあたっての攻め方から類推される。
 27日、羽柴秀吉率いる軍勢が小谷城に攻めのぼり、尾根上に連郭式に並ぶ曲輪のほぼまん中を攻め、京極丸を取り、長政と長政の父久政との間を分断し、まず久政を自刃に追いこんでいる。
 久政は隠居の身ながら発言権をもっており、朝倉氏との旧誼を重んずる久政が主戦派と、信長もみていたからである。信長にしてみれば、お市を娶っている長政は、調略によって降服させることができると考えていたのかもしれない。
 しかし、長政は降服を拒み、徹底抗戦の構えをみせ、お市と、三人の娘、すなわち茶々・初・江を信長側に引き渡しているのである。地元の伝承では、長政がお市と三人の娘を落城直前に逃がしたとするが、長政と信長との合意によって、落城前に城を出されたものと思われる。
 ところで、従来、長政の自刃、すなわち小谷落城の日を8月28日とするのが通説であった。それは、『信長公記』が8月27日に久政の自刃を記し、「翌日又、信長京極つぶらへ御あがり候て、浅井備前・赤尾美作生害」と、翌28日としているからである。
 ところが、その後、8月29日付の長政書状がみつかり、28日自刃というのが間違いということになり、自刃の日を9月1日とする史料もあることから、現在では長政の自刃は9月1日とされている。
 なお、長政には、お市の生んだ子ではないが、3人ないし4人の男の子がいたという。長男の万福丸については『信長公記』にも記されていて確実で、あとの2人か3人については詳細は不明であるが、万寿丸、万菊丸、喜八郎といった名前で伝わっている。
 長政は、男の子は落城すれば殺されると考えており、落城前に城を脱出させているが、長男万福丸は余呉湖の近くに隠れているところを捜し出され、磔で殺されている。他の男の子は寺に入ったりして無事だったようである。
 小谷城落城の場面で、城が炎上しているように描かれることが多いが、小谷城址の発掘現場からは焼けた痕跡が出ていない。また、あれだけどんどん平気で火をつける信長が、3年間、ただ包囲をするだけで力攻めをしていないところをみると、城内にいる妹お市を焼き殺すことができず、あえて火攻めをしなかったものと思われるのである。