「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

謀略でのし上がった男の生と死

 

「いまだ盛りの名将」。
 三好長慶(ながよし)が43歳の若さで死去した際の、『重編応仁記(じゅうへんおうにんき)』の長慶評である。長慶は、織田信長が永禄12年に上洛する以前の京の支配者だったが、彼の周辺は策略と謀殺(ぼうさつ)の歴史に充ちている。


 長慶の父・元長が討たれたのは天文元年(1532)。仲間割れの陰謀の結果だったと言われている。この変のために阿波に逃れた11歳の長慶だったが、翌年には早くも畿内で活動を始め、足利将軍を京から追うほどの軍事力を発揮しながら戦いを繰り返し、やがて中央の支配者として君臨していく。しかし、そのさなかの天文20年(1551)3月には長慶本人が2度も暗殺されかけたり、2カ月後には舅の遊佐長教(ゆさ・ながのり)が暗殺される(もっとも、この長教自身、旧主の畠山長經(ながつね)を謀殺したり、敵側の武将・斎藤山城守父子を誘殺した人物で、因果応報的な部分もある)など、あいかわらず暗闇に怪しい影がうごめく日々が続いた。


 永禄元年(1558)、長慶は将軍・足利義輝(よしてる)と和睦し、京の主の座を将軍に明け渡す。通説では、長慶は将軍を敵に回し続けるのを不利とみて講和したが、その無力感から政治に興味を失い、のち心身に変調を来すようになったとされている。だがこの譲歩は決して敗北ではなく、戦力を集中するための方便だったらしい。その証拠に、このあと長慶は河内(かわち)、大和(やまと)をも支配下に入れて実に9カ国と播磨の一部という三好氏歴代最大版図の主となっているし、さらには、伊勢にまで侵攻しようという動きすらあったらしい。


 永禄4年(1561)3月30日には、将軍義輝が長慶父子の屋敷を訪問するが、この時などは管領・細川氏綱(うじつな)の家臣たちが大名・三好家家臣と同席での能見物を希望しても容れられずシャットアウトされた(『三好亭御成記』)ほどで、「長慶・義興(よしおき)父子相ともに、主従の礼を失する事多し」(『三好家譜』)と、操り人形とはいえ幕府管領を完全に見下しており、ながらく抗争を続けてきたライバルの細川晴元(はるもと)もすでに実力は無く、畿内での長慶の立場は盤石(ばんじゃく)なものとなっていた。

<次稿に続く>