「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

因果応報?疑心暗鬼の末の怪死

 

 だが、三好長慶の栄光はこの永禄4年あたりが頂点で、あとは下り坂となる。

 

 まず永禄4年(1561)5月1日(異説あり)、猛将として「鬼十河(おにそごう)」の異名をとった末弟の十河一存(そごう・かずまさ)が死去する。多くの史料が、彼の死に触れる時に必ず「松永久秀(まつなが・ひさひで)が一存の死の場にいた」「一存は久秀と険悪な関係だった」と書き添えているように、三好家重臣の松永久秀による暗殺だとの噂がまことしやかに広まった。
続いて翌年3月、次弟の三好義賢(よしかた)も戦死、その上、永禄6年(1563)8月25日には息子の義興までもが22歳という若さで急死を遂げてしまう。『足利季世記(きせいき)』や『南海通記(なんかいつうき)』によれば、義興は黄疸(おうだん)で急死したと伝えられ、あとになって近侍(きんじ)の者によって毒殺されたとも、また例によって義興が自分を嫌っているのを知っていた久秀が、義興を毒殺したとも噂されたという。

 

 いずれにしても、「天下の乱も鎮めるだろうと言われたほどの器量人」(『重編応仁記』)と誉め称えられた前途洋々たる期待の息子の死は、長慶の精神と肉体に衝撃を与えたらしい。

 

 そしてとどめとして、永禄7年(1564)5月9日に2番目の弟・安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)もこの世を去る。この死も尋常のものではなく、長慶の命令で呼び出された上で誅殺されるというむごさだった。

 

 後世の史料は久秀が讒言した(『細川両家記』ほか)といい、『松平記』になるとさらに手がこんだ話になっていて、久秀が冬康の謀反の勧誘状を偽造し、それを証拠として長慶に粛清(しゅくせい)を勧めたとされているが、少なくとも事件当時、公家・山科言継(やましな・ときつぐ)が日記に「冬康が謀反を企んだという」と書き留めたように、三好一族の中に疑心暗鬼が起こっていた事は間違いない。すでに長慶には正常な判断力や気力は残っておらず、噂のままに冬康を排除したのだろう。

 

 その後、彼は冬康の無実を知って後悔に悶えながら2ヵ月後に世を去った。その死に関してささやかれる謀殺説を一概に否定できないほどに、その生涯は陰謀と暗殺の激しい渦の中にあったのだ。

<次稿に続く>