荒廃する京へ将軍が200年以上ぶりに上ることになった。時の将軍家茂を警護するため、幕府は江戸で浪士組を募集。これを聞いた近藤、土方、沖田らが集まり、最強の剣客集団が誕生することになる!

入京した浪士組を待ち受けたのは足利将軍の木像の首だった! 

 文久2年(1862)12月24日、会津藩主松平容保が、新設の京都守護職として入京した。治安悪化を鎮める動きが加速する京都へ浪士組は向かっていく。
 出立直前に、浪士取扱に任じられていた松平主税介は突然役職を辞任する。「二百人のあばれ者を、取り締まるべき人物ではない」(『新徴組浪士の談』大槻如電)とされる。『東西紀聞』に残る、伝通院を出立する浪士たちを見た商人の筆記には、「野郎坊主」「半纏」「蓑座」「虎の皮引き敷く」「一斗の入る瓢單」など、百鬼夜行の風体を装う人物たちがいたことも伝えられる。主税介はこうした一行と上洛するのを忌避したのだろうか。
 この上洛で近藤勇の一門らは、当初、水戸出身の芹沢鴨の一派と、混合分派する形で2つの小隊に配分された。近藤の小隊に、試衛館一派と、芹沢一派の平山五郎、平間重助、野口健司。芹沢一派の新見錦の小隊に井上源三郎と、別途応募した天然理心流の門人たちが配置された。芹沢は単独で一小隊長を命ぜられたが、意図的としか思えないこの偶然が、後の新選組成立の大きな要因になる。
 水戸天狗党の出身だった芹沢は、国事活動での幅広い経歴がある人物だったが、時にすさまじく苛烈な行動も示した。出立2日目の10日、宿泊地の本庄で、キレた芹沢が路上で大篝火を焚くという事件を起こしたとされる。手違いで、自分の宿が外されていたことがきっかけだったという。永倉新八の回想にのみ伝えられる事件である。
 道中での飲酒は禁じられていたが、浪士組の一員として上洛した上野国佐位郡境町出身の村上俊平の「浪士組上京日記」(『境町歴史資料』170号)には「飲酒」の文字がいくつも認められる。積雪も残る春の行程で、時に馬を使った者たちもいた。
 出発から15日後、2月23日に、浪士組一行はついに京都に入った。三条大橋を渡っての入京時、彼らは橋の下に奇妙なものを見る。洛北等持院にあった足利将軍の木像の首を、不逞浪士らが梟首台に晒したもので、上洛する徳川将軍家を揶揄した行動だった。都でのとんでもない歓迎に、浪士組一行の緊張感は漲ったことだろう。彼らは、やがて京都西方の葛野郡壬生村に入った。郷士の家や寺院が、小隊をベースに宿舎として定められ、めいめい落ち着いた。
 到着時、近藤は隊長を離れていたが、彼の小隊は坊城通りに面した郷士八木源之丞邸を宿舎とした。新見錦の小隊は、程近い郷士中村小藤太邸、また幹部の宿舎は八木邸斜め前の新徳寺に置かれ、ここが本部となった。やがて分散していた近藤と芹沢の一派は、八木源之丞邸に集い始めることになる