荒廃する京へ将軍が200年以上ぶりに上ることになった。時の将軍家茂を警護するため、幕府は江戸で浪士組を募集。これを聞いた近藤、土方、沖田らが集まり、最強の剣客集団が誕生することになる!

内部分裂勃発! 

 文久3年(1863)2月23日、壬生に落ち着いた浪士組に、その日の夕方、本部である新徳寺に集合するよう命令が出された。主だった者たちが集まった本堂で、プランナーの清河八郎が説いたのは、御所学習院への上書の提出だった。学習院は天保13年(1842)に設置された、公家子弟に経学歴史を学ばせる施設である。異国船来航以後、朝廷への上書を取り扱う窓口ともなっていた。
 この上書に清河は「尽忠報国、身命を抛ち勤王仕り候志」があるとして、「幕府お世話にて上京仕り候えども、禄位などはあい受け申さず、ただただ尊壤の大義、あい期し奉り候」と断じた。
 元より尊皇は万民共通の思いであり、さらに攘夷実行も承諾に異論を唱える者はいない。ただ、幕府と距離を置くことを明言する清河の姿勢に、少なからず違和感を持った者もいたはずである。この日、招請されたであろう近藤勇もそんな一人ではなかったろうか。
 これが想定外の展開の始まりでもあった。24日、上書は提出された。さらに2月29日、主だった者たちに新徳寺への集合が告げられた。
 前年に起きた生麦事件に対する幕府方の処理を不服とした英国艦隊が、横浜へ到来していた。攘夷戦に発展するやもしれない動向に、この席で清河八郎は、対応のために東帰する意思があることを一同に断言した。
 翌日、学習院に提出した上書には「速やかに東下、攘夷の御固めに御指しになし下されたし(中略)私ども一統の志願」とある。これこそが、浪士組を献策した清河が、当初から秘めていたものだった。幕府を通じて集めた浪士たちを、攘夷活動のための一大勢力にしようと目論んでいたのである。
 3月3日、浪士取扱の鵜殿鳩翁らに、朝廷より沙汰書が下された。英国との開戦の可能性もあるため「その方召し連れ候浪人ども、速やかに東下いたし、粉骨砕身忠誠に励むべく候」とあった。
 将軍家茂の上洛はその翌日だった。目的であるはずの京都の治安対策も果たせぬまま、東下へのお墨付きが出てしまったのである。近藤勇や土方歳三にとっては度し難い展開だった。鵜殿鳩翁は5日に辞表を提出し、8日になって、在京中だった幕臣の高橋泥舟が、後任の浪士取扱に任ぜられた。
 将軍家への忠誠心に根差す近藤は、清河や、この計略に関わった周辺の人物たちを許すことができなかった。後に近藤が認めた手紙や、永倉新八の回想に、彼らが京都で清河らの暗殺を企てていたことが記されている。永倉によると、当時護衛に就いていた山岡鉄太郎が幕府の朱印状を持っていたため、これが血に染まることを畏れ、果たせなかったという。
 浪士組は3月13日、帰還の途に発った。だが清河八郎は、帰着後間もない4月13日に、麻布一の橋で暗殺される。幕府上層部の指示によるものだった。浪士組隊士らは攘夷活動に進むことなく、多くはその後、江戸の治安維持を担った新徴組に転身していった。
 将軍家茂は在京していた。
 あくまで京都残留に固執する近藤勇らは、芹沢鴨らと、京都守護を担う会津藩を頼った。この時、同じく浪士組を離れていた根岸友山や殿内義雄らも会津藩と接触した。彼らは24名からなる治安維持組織の設立を認められ、会津藩の傭兵的存在として、その指揮下に置かれた。当初、一同は「壬生浪士組」と呼ばれた。これは2月の着京直後から京雀が浪士組に冠していた蔑称である。
 やがて8月18日、御所で起きた政変に出動した一同に、会津藩は新選組の隊名を授けた。それは、かつて同藩で藩主に近侍する諸芸に秀でた弟子たちに与えられていた由緒ある隊名だった。