日本の歴史におけるそれぞれの時代に確かな足跡を残した名僧たちには、確固たる個性があった。
弾圧や海外渡航などの高いハードルを乗り越え布教に努めた4人の名僧から、現代にも通じる生き様を学ぶ。
 

天台宗を日本流にアレンジした最澄の柔軟性

  最澄(さいちょう、767~822)は日本天台宗開祖。近江国(滋賀県)の生まれ。19歳のときに東大寺で受戒をして正式な僧となるが、間もなく比叡山に籠もった。
 膨大な経典を読破・研究の末、『法華経(ほけきょう)』を根本経典とする天台宗の教えがもっとも優れていると結論。その学識は朝廷にも伝わり、31歳のときには宮中の道場に勤める内供奉(ないぐぶ)に選ばれた。
 その後、最澄(伝教大師)は延暦23年(804)、還学生(短期視察)として唐へ渡航。目的である天台教学に加え、禅や密教まで幅広く熱心に学んだ。  最澄の目的は天台教学を核として禅・密教・戒律を体系づけた総合仏教の確立であった。これはそれまでの仏教界にはない柔軟な発想といえる。
 密教の学習が不十分だったことに加え、他宗派との論争などに忙殺されたためこの計画は未完に終わってしまうが、その意思は弟子に引き継がれ、鎌倉新仏教の誕生へと繋がったのである。 

鑑真の揺るがない信念

 律宗の開祖・鑑真(がんじん、688~763)は中国揚州江陽県(江蘇省揚州市)の生まれ。14歳で出家し、律宗や天台宗の教えを学ぶ。26歳で故郷に帰り、布教の傍ら貧者の救済も行なった。戒律を授けた人は4万人余という。
 55歳の時、鑑真はふたりの日本人僧の訪問を受けた。日本でも正式な授戒を行なうため、師となる僧の派遣を求めてきたのだ。鑑真は弟子に希望者を募ったが、手を上げる者はいなかった。そこで鑑真は言った。「それなら私が行こう。仏法を広めるためには、命など惜しくはない」
 しかし、渡航は苦難を極めた。嵐や取り締まりなどにより失敗が続き、高弟を失った上、自身も視力を失った。
 それでも鑑真の意思は揺るがず天平勝宝5年(753)、ついに日本の地を踏んだのであった。東大寺に入った鑑真は東大寺に戒壇院(かいだんいん)を建立、晩年は唐招提寺を建て弟子の育成に努めた。

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