天正10年(1582)6月2日早朝、
織田信長は本能寺とともに紅蓮の炎に散った。
中世を焼き付くし、「天下布武」を掲げた覇王は、
重臣明智光秀の謀叛の前に自刃したのである。
光秀は、いかにして主君を討ったのか。
急襲された信長は、どう立ち回ったのか。
戦国最大のクーデーター「本能寺の変」をひも解く。

信長は公家衆と大茶会に興じていた

  信長は、天正10年(1582)5月29日、わずかの供を連れただけで安土を出発し、その日の内に京都の本能寺に入った。信長が京都における宿所としてよく使っていたのがこの本能寺と、同じく法華宗寺院の妙覚寺で、この時、信長は本能寺を宿所としたのである。本能寺は、城ほどではないが、堀と土塁に囲まれ、城郭寺院といってもよい堅牢な造りとなっていた。本能寺は、自ら京都に城を持たなかった信長にとっての定宿であり、京都出張所ともいうべき場所であった。
 太田牛一の記した『信長公記』によると、5月29日の信長一行は、「御小姓衆二、三十人召列れられ、御上洛」とあるので、たった20〜30人の供とみる人もいる。しかし、御小姓衆が20〜30人で、その他に警固の武士もいるので、少なくとも100人はいたはずである。何を根拠としたのか明らかではないが、『当代記』には「百五十騎」とある。
 信長は安土と京都を往ったり来たりしているが、では、このときの上洛の目的は何だったのだろうか。ひとつは、備中への出陣のためである。ただ、出陣といっても、このときの出陣は、実際に戦闘を行うことは想定していない。備中高松城を水攻めしている羽柴秀吉からの要請を受け、明智光秀をその応援に向わせ、いってみれば、首尾を見届けるための形式的な出陣という色彩が濃い。そのため、連れだった供が少人数だったのである。
 そして2つ目、これが主目的と思われるが朝廷からの、「太政大臣か関白か征夷大将軍か、お好きな官に任命しましょう」という、いわゆる“三職推任”に対する返答をするためだったと考えられる。
 もっとも、信長のねらいはそれだけではなかった。それは、この時、信長が安土城から名物茶器として名高い九十九茄子・珠光小茄子・紹鷗白天目・小玉澗の絵・牧谿のくわいの絵など天下の逸品38種を運ばせていたことからうかがわれるように、本能寺で大茶会を開くのが目的だったのである。
 この日の茶会には、博多の豪商島井宗室のほか、近衛前久ら公家たちが招かれている。茶会のあと酒宴になり、信長は囲碁の対局をみて床についた。

<次項に続く>