現在の桂川  
天正10年(1582)6月2日早朝、
織田信長は本能寺とともに紅蓮の炎に散った。
中世を焼き付くし、「天下布武」を掲げた覇王は、
重臣明智光秀の謀叛の前に自刃したのである。
光秀は、いかにして主君を討ったのか。
急襲された信長は、どう立ち回ったのか。
戦国最大のクーデーター「本能寺の変」をひも解く。

本能寺の変、明智光秀はどう動いたのか

  明智光秀には、信長から与えられていた城が2つあった。ひとつは近江の坂本城で、もうひとつが丹波の亀山城である。『信長公記』によると、信長から秀吉の応援を命じられた光秀は、5月17日に安土城から坂本城に入り、すぐ、出陣準備のため亀山城に入ったとしている。
 光秀が亀山城に入ったのは5月26日で、翌27 日、戦勝祈願のため、近くの愛宕山山頂の愛宕大権現にお参りし、参籠しているのである。
 そして、いよいよ6月1日、申の刻、すなわち午後4時ごろから5時ごろにかけて、家中の侍大将や主だった物頭を集めて、すぐ出陣の準備をし、準備ができ次第出発することを命じている。当時、よほど切羽詰まった事情がない限り、夜間の行軍は避ける傾向があるので、すでにこの時点で、光秀は謀反を心に決めていたものと考えられる。
 この段階では、光秀はまだ重臣たちにも本心を明かしていない。しかし、急な出陣、しかも夜間の出陣をいぶかる空気を察したものか、光秀は、「森蘭丸から使いがあり、信長様が明智軍の陣容・軍装を検分したいということなので、一度、京に向かう」と説明している。
 準備ができ、亀山城を出陣し、通説によれば、途中の野の条(亀岡市篠町)というところで勢揃いが行われたとする。時間は午後8時から9時ごろで、兵の数はおよそ1万3000だった。
 ところが、野条には、1万3000の兵が勢揃いできるような空間はなく、野条から少し離れたところに篠八幡宮(篠村八幡宮ともいう)があり、そこで勢揃いが行われた可能性が高い。というのは、この時、光秀が斎藤利三をはじめ、明智秀満・同次右衛門・溝尾庄兵衛・藤田伝五ら重臣にはじめて謀反のことを打ちあけた場所が篠八幡宮だったという伝承があるからである(明智滝朗『光秀行状記』)。
 実は、この篠八幡宮は、源氏の人間にとって特別な神社だった。古くは、八幡太郎義家が東征の時に祈願したという由緒をもち、また、元弘・建武の争乱の時、幕府軍の一員として後醍醐天皇討伐に伯耆へ向かった足利尊氏が、この篠八幡宮において討幕方になることを決意し、京都の六波羅探題を攻めているのである。
 目的地こそ、本能寺と六波羅探題とちがっているが、足利尊氏も源氏、光秀も源氏だと考えると、本能寺にいる平姓の信長、平姓北条氏がいる六波羅探題というように、源氏が平氏を討つという図式となり、そのことを知っていた光秀が、この篠八幡宮ではじめて重臣たちに謀反のことを打ちあけたという可能性は高い。 打ちあけられた重臣たちもびっくりしたものと思われる。反対する者もあったと考えられるが、重臣たちもそれに従うことになり、老ノ坂の峠に到着したのが午後10時から11時ごろ、ついで12時ごろ沓掛に至り、ここで全軍小休止し、夜中の食事をとっている。
 沓掛は、京への道と西国への道の分岐点であった。侍大将や物頭たちには、「信長様に明智軍の陣容と軍装をおみせするため」
 とは説明しているが、その中の誰か1人でもこの行動に不審を抱き、本能寺に通報する者が出れば襲撃は不可能になる。そこで光秀は、家臣の1人天野源右衛門を先発させ、通報者が出ないよう手を打っていた。
 2日午前2時ごろ、本隊は桂川を渡った。馬の沓をはずし、徒歩の足軽は足半というつまさきだけの草鞋にはきかえさせ、さらに、鉄砲の火縄に火をつけさせている。これは、戦闘態勢に入ったことを意味し、ここではじめて、本能寺の信長を討つということが全軍に触れられた。『川角太閤記』によると、「今日よりして、天下様にお成りなされ候間、下々草履取り以下に至るまで勇み悦び候へ」と伝令が触れまわったという。
 1万3000の兵が同じルートをとったとは考えられない。いくつかに分かれ、本能寺の森をめざしたものと思われる。午前4時ごろ、光秀の軍勢は本能寺を包囲し終わった。

<次項に続く>