現在の本能寺跡  
天正10年(1582)6月2日早朝、
織田信長は本能寺とともに紅蓮の炎に散った。
中世を焼き付くし、「天下布武」を掲げた覇王は、
重臣明智光秀の謀叛の前に自刃したのである。
光秀は、いかにして主君を討ったのか。
急襲された信長は、どう立ち回ったのか。
戦国最大のクーデーター「本能寺の変」をひも解く。

朝方4時、1万を超える明智軍が本能寺を急襲する!

 旧暦の6月2日は、いまの暦の7月1日にあたり、1年で一番日が長いころで、午前4時ごろはちょうど夜が白みかけてくる時間にあたっていた。夜討ちは敵の油断を衝く戦法ではあるが、相手を逃してしまうおそれもあった。光秀は、夜が白みかけるころをねらって朝駆けで本能寺を包囲したことになる。
 全軍が揃ったところで、一斉攻撃の命が下され、何人かの兵が堀と土塁を乗りこえて寺内に乱入し、門の閂を開け、1万3000の兵のほとんどが突入していった。本堂に放火しながら、信長がいるであろう奥書院に向かった。
 信長は、前夜、茶会のあと酒宴にも出ており、宴が終わってからも眠れなかったものとみえ、本因坊算砂と鹿塩利賢という、この時代を代表する囲碁の名手の対局を見て就寝したので、寝たのは夜半すぎであり、明智軍の襲撃はまさに寝入りばなという感じであった。
 ただならぬ物音に目をさまし、小姓の森蘭丸をよんでたしかめさせている。信長は、家臣同士の喧嘩がはじまったものと思ったようであるが、蘭丸からのしらせで光秀の謀反であることを知った。
 『信長公記』によると、信長は、「是は謀叛歟、如何なる者の企ぞ」
 と蘭丸に聞くと、蘭丸は、
「明智が者と見え申候」
 と答えたことがわかる。すると、信長は一言、
「是非に及ばず」
 といっている。
「是非に及ばず」とは、いろいろに受け取ることができる言葉であるが、「何ということだ」という意味と、「もうじたばたしてもはじまらない」といった意味も含まれた言葉と思われる。
 このあと、信長自身も武器をもって明智軍と戦うことになるが、明智軍に本能寺を襲われたときの信長の状況について、ややちがった描写をする史料もある。
 たとえば、宣教師のルイス・フロイスが著した『日本史』によると、明智の兵が本能寺の中に入ってみると、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭で身体をふいている信長をみつけたので、ただちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、長刀をもちだして、明智の兵と戦ったとしている。
 実際の場面、『信長公記』の記述が正しいのか、『日本史』の記述が正しいのか判断に迷うところではあるが、現在では、『信長公記』が記す状況で本能寺の変の流れは理解されているように思われる。
 小姓たちだけでなく、厩にいた中間たちも防戦に加わり、また、異変を聞いて、寺の外に宿をとっていた家臣たちも馳せ参んじてきたが、多勢に無勢で、信長の家臣たちは次つぎに討たれていった。

<次項に続く>