激動の京で倒幕派を相手に過激な取り締まりを遂行した「新選組」。
血気盛んな剣客集団が巻き起こす大小の事件はやがて、京の町に新選組の勇名・悪名を轟かせていく。新選組の歴史の中で最も華々しい瞬間となった
池田屋事件を含む、6つの事件の真実に迫る!

壬生浪士組きっての暴れん坊・芹沢鴨と
力士の争いが大乱闘に発展!

 新選組がまだ壬生浪士と名乗っていたころ、大坂力士と乱闘事件を起こしたことがあった。彼らの本来の業務ではなく、喧嘩にすぎないものだったが、力士側に多くの死傷者を出したことで幕末史に残る事件となった。
 文久3年(1863)6月3日のことだ。午後4時ごろ、大坂出張中の芹沢鴨、山南敬助、沖田総司、永倉新八、斎藤一、平山五郎、野口健司、島田魁の8人が、夕涼みに繰り出した。猛暑のため、みな稽古着に脇差だけという軽装で、小舟に乗って淀川を下った。
 途中、斎藤が腹痛を訴えたので、鍋島河岸で舟を降ることにした。北新地の住吉楼で休憩しようと歩いていると、向こうから1人の力士がやってくるのに突き当たった。芹沢が「側へ寄れ」と声をかけると、力士は「寄れとはなんだ」といって傲然としている。かっとなった芹沢は、力士をその場に殴り倒し、歩を進めた。
 しかし蜆橋にさしかかると、またも別の力士が橋の中央を歩いてきて道を譲らない。それで今度は全員で飛びかかって倒し、芹沢が馬乗りになって、「力士一同へ、以後、武士に無礼すなと伝えよ」といって突っ放した。
 やがて北新地に着いた壬生浪士は、とりあえず茶屋に入って斎藤の介抱をしていたが、なにやら表で大勢の人声がする。先刻の件に腹を立てた力士たちが、20〜30人もの仲間を連れて復讐にやってきたのだった。
 力士たちはみな筋金入りの樫の棒を手にしており、表に出た壬生浪士に向かって容赦なく打ちかかってきた。芹沢以下の者はやむなく抜刀し、路上で大乱闘が始まった。
 武器は脇差だけという厳しい戦いとなったが、そこは手練れの壬生浪士たちだ。たちまちのうちに4人を斬り倒し、14人ばかりに怪我を負わせると、残りの力士はみな逃げ去り、乱闘は壬生浪士の大勝利に終わったのである。