激動の京で倒幕派を相手に過激な取り締まりを遂行した「新選組」。
血気盛んな剣客集団が巻き起こす大小の事件はやがて、京の町に新選組の勇名・悪名を轟かせていく。新選組の歴史の中で最も華々しい瞬間となった
池田屋事件を含む、6つの事件の真実に迫る!

腹いせか? 天誅か?「大和屋」焼き討ち事件

 京都葭屋町一条下ル所に大和屋という商家があった。主人の庄兵衛は、生糸、反物、縮緬などを扱う商人だったが、交易の利益を独占しようと、生糸の買い占めを行っていた。そのために生糸の値は暴騰し、庶民の暮らしを苦しめていた。
 この大和屋が、尊王攘夷派の天誅組に多額の軍資金を提供したという情報が、壬生浪士局長・芹沢鴨の耳に入った。脅されてのこととはいうが、倒幕をもくろむ天誅組に献金するとはけしからんと、さっそく芹沢は5、6人の部下を引き連れて大和屋におもむいた。
 文久3年(1863)8月12日、大和屋に対して芹沢は、壬生浪士への活動資金の借用を申し入れた。天誅組に出せるのなら壬生浪士にも出せるだろうということだったが、大和屋は主人の不在を理由に金談を断った。
 これに怒った芹沢は、いったん隊に戻った上で、その夜、35人もの隊士を連れて再び大和屋へと向かった。腹いせに報復行動に出ようというのだった。
 午前零時ごろ、芹沢らによる焼き討ちが始まった。隊士たちはみな抜刀して大和屋の土蔵を取り囲む。そして、藁束や板切れに火をつけて土蔵を燃やし始めた。
 一説に、焼き討ちは大砲を使って行われたというが、事実ではない。この頃の壬生浪士が大砲を所持していた形跡はなく、また、どの史料を見ても大砲を撃ったとは書かれていない。火矢を放ったとしているものはあるが、それ以外はすべて彼らが手で火をつけたと記している。
 出火を知って火消しが駆けつけ、消火にあたろうとするが、壬生浪士たちが刀を振りまわして脅すので近寄ることができない。その様を、芹沢は屋根の上に上り、愉快そうに笑って見ていたという。
 結局、焼き討ちは13日の夕刻まで続けられ、大和屋の建物はほぼ全焼した。芹沢は満足して引き上げたが、この暴挙が結果的に芹沢を破滅に追い込むことになったのである。