愚直なまでに己の信念を貫き、動乱の幕末を誰よりも武士らしく生き抜いた近藤勇。

壬生狼と恐れられた新選組局長としての顔と、その裏に隠された素顔に迫る!

近藤が京都で新選組を結成した動機は、かなり純粋なものであり民衆のための政治を念頭においていた。そしてその考えはたとえ対立する側に立っても、尊王攘夷派の志士も同じだと思っていた。が、その志士の中には「攘夷はおまえたちのためだ」といって、市中の商人から活動資金をゆすり、自分たちの遊興費に充てる者もいた。いわばニセ志士だ。
 また政局は個人から組織に変わり、それも関ヶ原合戦で家康に敗れた西南雄藩が力を発揮する。その力も財力と権謀にみちた政略ばかりだ。さらに幕府内は依然として身分格式がものをいい、浪人など相手にされない。近藤は新選組隊士の正当な位置づけをのぞむようになった。5年間の努力を評価し、慶応3年6月10日、幕府は近藤を見廻組与頭格(600石)、土方を同肝煎格に登用したのをはじめとして隊士全員が旗本にランクされた。正式な幕臣になったのである。しかし新選組を尊王攘夷実現の踊り場として利用しようと考える参謀伊東甲子太郎一派は、これに大きく異論を唱え脱退した。これには藤堂平助のような子飼いの門人も共鳴していた。入隊者の思想調査などしないから、新選組は種々雑多な思想の混成集団になっていたのである。新選組が旗本集団になると、近藤はこの状況は放置できないと痛感した。統制とそのための粛清を思い立つ。
 しかし新選組の名が高まり、その存在が重みを増してくると、近藤も政局にかかわりのある一員として発言の機会も多くなる。が、近藤は性来潔癖で誠実な人間だ。ウソをついたり人をダマしたりすることは大きらいだ。彼のモットーはあくまでも「誠実」である。しかし周囲は権謀と術策の渦巻く世界だ。その中でどう生きるか。近藤は決断する。
「汚れた社会で旗印の“誠実さ”を集団で示すのが新選組だ、ということを天下に示しつづける。そのためには、まず隊士一人ひとりがこのことを認識し、身の行いを正し、市民の模範になることを心がける。これを徹底するためには隊則を定め、違背者は厳しく罰するということを、隊の内外に示さなければならない」
 近藤はこの決意を盟友の土方歳三に話し、土方も賛成した。土方も多摩の農民出身だが近藤と同じように“武士意識”とその責任をいつも重くうけとめていた。隊則は「局中法度」と名づけられ、違背者は例外なく切腹させられた。中には不名誉刑の斬罪に処された者もいる(河合耆三郎)。内部粛清の嵐が吹きまくった。
 このころの近藤は、いままでの自分の多目的な思想を整理して、的を絞っていた。それは
「徳川将軍家に忠誠をつくす」
 ということだ。とくに14代将軍の徳川家茂の誠実な姿をみていて、近藤はこの感を深めた。妻和宮の兄である孝明天皇も同じ印象を家茂にもった。攘夷という、日本の国力では実行できないことを、ひたむきに実行しようとする義弟の誠実さに天皇もひどく胸をうたれていた。だから天皇にとって「倒幕」だの「討幕」などということは、とんでもない話だった。「公武一和」がその目的であり、近藤もまったくおなじだった。