激動の京で倒幕派を相手に過激な取り締まりを遂行した「新選組」。
血気盛んな剣客集団が巻き起こす大小の事件はやがて、京の町に新選組の勇名・悪名を轟かせていく。新選組の歴史の中で最も華々しい瞬間となった
池田屋事件を含む、6つの事件の真実に迫る!

クーデター発生! 新選組は勇んで警護につく

 文久3年(1863)8月ごろの京都では、長州藩を中心とする尊王攘夷派(尊攘派)が政治の実権を握っていた。しかし、これに反感を持つ公武合体派の薩摩藩は、会津藩とひそかに同盟を結び、8月18日未明にクーデターを決行した。
 8月18日の政変と呼ばれるもので、これによって長州藩は御所の警備の任務を解かれ、7人の尊攘派の公卿が御所から追放された。尊攘派の勢力は、1日にして京都から一掃されたのだった。
 会津藩お預かりの壬生浪士にも、正午近くになって出動命令が下された。早朝から出動を命じられなかったのは、秘密を要する任務だけに、お雇いの浪士団を参加させるのは、憚られたということか。
 命令を受けた壬生浪士は、直ちに総員50人を2列縦隊にし、誠の一字を染め抜いた隊旗を先頭にかかげて勇躍出陣した。
 御所の蛤御門に着くと、会津兵が守備を固めており、「何者だ、名乗れ」と制止される一幕もあった。壬生浪士が結成されてからすでに5カ月たっていたが、京都に赴任したばかりの会津兵のなかには彼らを知らない者もあったのだろう。
 会津藩軍事奉行の西郷十郎右衛門がやってきて、誤解が解けると、あらためて壬生浪士には御所の御花畑門を守るよう指示が与えられた。会津藩の合い印の黄色いたすきも隊士全員に配られ、一同は張り切って守備についたのだった。
 結局、長州藩側の反撃はなく、実戦で腕を振るう機会はなかったが、初の大舞台で任務を全うできたことは、会津藩から高く評価された。その褒美として、後日、彼らに新しい隊名が与えられている。
 それが「新選組」だ。会津藩にとって、「新選組」は伝統ある精鋭部隊の名であり、近藤たちがその名にふさわしい存在だと認められた証であった。