激動の京で倒幕派を相手に過激な取り締まりを遂行した「新選組」。
血気盛んな剣客集団が巻き起こす大小の事件はやがて、京の町に新選組の勇名・悪名を轟かせていく。新選組の歴史の中で最も華々しい瞬間となった
池田屋事件を含む、6つの事件の真実に迫る!

池田屋の2階奥座敷には20余人の浪士が集結していたが、異変を知り、みな抜刀して身構えた。近藤勇はそれに向かい、「御用改めだ。無礼いたせば容赦なく斬り捨てる」と言いはなった。
 新選組の襲撃だと悟った浪士たちの多くは、手すりを乗り越えて裏庭に飛び降り、逃亡をはかった。裏口は、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門の3人が守りを固めていたと推測されるが、彼らはみな必死で逃げる浪士たちを防ぎきれずに倒されてしまった。
 2階奥座敷には数人の浪士が残っていただけだったから、沖田総司が、「この敵は俺が引き受けた」といって、近藤に階下に逃れた敵を追うように頼んだ。沖田の実力に信頼を置く近藤はいうとおりにして2階をまかせ、自分は階段を降りて裏口へまわった。
 近藤の期待にこたえるように、沖田は向かってきた1人の敵をたちまちのうちに斬り伏せる。しかし、その直後、沖田の身体に異変が起きた。激しく咳き込み、喀血してしまう。労咳(肺結核)を病んでいたのだ。
 その場に倒れ込み、しばらくの間は立ち上がることもできなかったが、敵がもうあたりには1人も残っていなかったのは幸運だった。そのまま沖田は戦線を離脱した。
 一方、階下では永倉新八が奮闘していた。1人の浪士が表口から逃げようとしたが、表を固めていた谷万太郎の槍に押し戻されてしまう。やむなく引き返してきたところに、永倉が待ちかまえていた。横腹と肩を斬られた浪士は、その場に絶命する。
 さらに2人の敵を斬った永倉がふと振り返ると、台所のあたりで戦っていた藤堂平助が顔面を血だらけにして苦戦しているのが見えた。敵の斬撃に額を割られ、流れ出る血が目に入って戦闘不能になっていたのだ。
 同志の危機を救おうと、永倉が加勢に入るが、強敵のようで、容易に永倉を斬り込ませない。逆に、鋭い剣先が永倉の衣服の胸元を斬り裂いていく。
 そのとき、裏口の敵と戦っていた近藤が、やっとのことで駆けつけると、永倉の相手に後方から袈裟懸けに斬りつけた。助けられた永倉は、すかさず敵にとどめの一撃を加え、窮地を脱することができた。
 沖田と藤堂が戦闘不能になったため、屋内には、わずかに近藤と永倉の2人だけが残された。しかも、永倉の刀は真っ二つに折れ、左手の親指の付け根の肉を削がれている。近藤は無傷だったが、愛刀虎徹は刃がのこぎりのようにぼろぼろに欠けていたという。まだまだ戦況は、どう転ぶかわからなかった。
そんな時、ようやく土方歳三隊24人が池田屋に到着した。受け持った鴨川東側には怪しい浪士は誰もいなかったのだ。
 かねての手はずどおり、井上源三郎が、原田左之助、斎藤一ら10人を従えて屋内に突入する。到着の遅れを挽回しようと張り切る井上は、2階の梁の上にいた浪士を見つけると、自ら槍を取って下から突き殺してしまう。
 原田も、得意の槍をふるって奮戦するが、どう誤り伝えられたものか、当時の風聞書に、「壬生浪人のうち一人、原田某と申す仁、勇戦討死にいたし候よし」などと書かれている。
 この井上隊の突入に勇気づけられ、それまで表口の守備についていた近藤隊の武田観柳斎が、やはり屋内に踏み入っている。ちょうどそこへ、天井の上に隠れていた浪士が、板が壊れて落ちてきたので、武田はこれ幸いとばかりに斬り捨てて手柄とする。
 土方隊の到着によって人数的に余裕のできた新選組は、方針を斬り捨てから捕縛へと変更した。そして、このころになってようやく3000人ほどの諸藩兵が沿道にあふれ、池田屋を遠巻きにした。
 浪士たちの逃げ場は完全に閉ざされ、もはやこれまでと、大高忠兵衛(播州林田)、佐伯稜威雄(長州)ら4人が捕虜となった。
 新選組との戦闘によって、浪士側では宮部鼎蔵(肥後)、吉田稔麿(長州)、広岡浪秀(長州)、望月亀弥太(土佐)、石川潤次郎(土佐)、大高又次郎(播州林田)、福岡祐次郎(伊予松山)が池田屋内部およびその周辺で討死する。
 ほかに池田屋の集会には参加していなかった者で北添佶磨(土佐)、杉山松助(長州)が討死。以上9人が志士側の死者ということになるが、ほかに吉岡庄助(長州)、藤崎八郎(土佐)、野老山五吉郎(土佐)の3人が事件とは無関係ながら、巻き添えを食って斬り死にしている。
 また、松田重助(肥後)は負傷して捕縛後、獄中にて6月8日に落命した。この松田を含めれば、実に13人もの志士が当夜の戦闘によって討ち果たされたことになる。捕虜となったのは4人だが、新選組は諸藩兵とともに浪士狩りと称して市中の掃討戦を翌朝まで繰り広げており、その結果、さらに20余人の関係者を捕縛している。
 こうして池田屋事件は幕を降ろし、京都焼き討ちの暴挙は未然に防がれた。
翌日の正午になって、新選組は隊士を二列縦隊にして壬生村に帰隊した。沿道は見物人であふれ、その凱旋の様子を見た屯所の八木源之丞は、
「江戸で赤穂浪人が、仇を討って菩提寺へ引き揚げたというときは、こんなものであったろうな」
 と語っている。隊士たちは、みな返り血を浴びていて、衣服が赤く染まっていた。浅葱色に白く山形を抜いた羽織は、すでに制服としては用いられなくなっていたようだが、7、8人の者が陣羽織のように肩に引っかけていた。気分は、赤穂浪士そのものであったろう。
 2日後の6月7日、新選組の働きに対して、会津藩から500両の報奨金が下され、また2カ月後の8月4日になって、幕府からも600両の金が下されて隊士に分配された。近藤は30両、沖田には20両が与えられている。
 殊勲の新選組に対する褒美は、これらの金だけではなく、近藤以下の隊士総員を幕府直参として召し抱える話もあった。しかし、近藤はこれを断った。
「私は新選組隊長で結構です」
 と言い、与力上席とも両番頭次席ともいわれる格式を辞退したと伝わっている。
 あるいは格式が低いことに不満があったのかもしれない。幕臣になれるなら条件はどうでもいいというわけではなく、近藤は自分たちの誇りを満足させられるような取り立てを望んでいた。池田屋事件という大舞台で主役を張った、自信のあらわれであっただろう。