激動の京で倒幕派を相手に過激な取り締まりを遂行した「新選組」。血気盛んな剣客集団が巻き起こす大小の事件はやがて、京の町に新選組の勇名・悪名を轟かせていく。
新選組の歴史の中で最も華々しい瞬間となった池田屋事件を含む、6つの事件の真実に迫る!
 

 池田屋事件で長州系の志士が新選組に多数捕殺されたという報告は、すぐに長州本国にもたらされた。

 そのころ長州藩では、前年の政変で失脚した藩主毛利敬親と、三条実美ら尊攘派公卿の復権を嘆願するために上京する準備をしていたが、彼らは池田屋の報告を聞いて憤激した。そして、嘆願がかなわない場合には、武力に訴えてでも目的を果たそうと、2000人もの大軍を編成して京都に向かったのだ。

 これを迎え撃つ幕府側では、会津、薩摩などの諸藩が守備についたほか、池田屋で一躍名をあげた新選組が伏見方面の九条河原に派遣された。肺結核を発病して間もない沖田総司の姿は陣中になかったものの、額を割られた藤堂平助は早くも現場に復帰していた。

 文久3年(1863)7月19日未明、嘆願が通らないことに業を煮やした長州軍が御所に発砲し、両軍の間に戦端が開かれた。

 しかし、新選組の守備する伏見方面よりも、嵯峨天龍寺方面から進攻した敵軍の勢いが強く、御所の蛤御門付近は激しい戦いとなった。この戦いを一般に禁門の変というが、最大の激戦地の名をとって蛤御門の変とも呼ばれた。

 遠く御所の方角に戦火があがったのを見て、永倉新八と原田左之助は民家の屋根に上って、戦況を確認しようとした。それでも状況がつかめずにもどかしく思っていると、会津藩の急使がやってきた。御所が危機に瀕しているので、新選組も応援に駆けつけよという命令だった。

 彼らが現場に到着したころには、すでに幕府方諸藩の働きによって長州軍は崩れはじめていて、一番いい見せ場は終わっていたが、付近にはまだ敗残兵が潜伏していた。公卿門の守備を命じられた新選組は、門前の日野大納言邸に長州兵20人ほどが潜んでいるのを知ると、永倉と原田が隊士20人を従えて邸内に踏み込んだ。

 
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