激動の京で倒幕派を相手に過激な取り締まりを遂行した「新選組」。
血気盛んな剣客集団が巻き起こす大小の事件はやがて、京の町に新選組の勇名・悪名を轟かせていく。新選組の歴史の中で最も華々しい瞬間となった
池田屋事件を含む、6つの事件の真実に迫る!

 京都の三条大橋西詰の制札場には、長州藩を朝敵として批判する制札が立てられていた。ところが慶応2年(1866)8月28日夜、十津川郷士・中井庄五郎ら数人が、制札の文字を墨で消した上、制札を引き抜いて鴨川の河原に投げ捨てるという事件が起こった。

 制札は9月2日に再び立てられたが、5日の夜、4人ほどの浪士がやってきて、またしても制札を引き抜いて持ち去ってしまった。そこで、事態を重く見た幕府は、10日に三たび制札を立てるとともに、警備を新選組に命じたのである。

 その日から新選組では、橋の東詰の町家、西側の酒屋、南側の先斗町会所の3カ所に隊士を配置し、さらには隊士2人を物乞いに変装させて、犯人の再来を待った。はたして12日の夜、彼らは姿を現した。

 午前零時過ぎ、河原の南方から現場に現れたのは、いずれも土佐藩士で、藤崎吉五郎、松島和助、宮川助五郎、沢田甚兵衛、安藤鎌次、岡山禎六、本川安太郎、中山謙太郎の8人だった。彼らが制札に手をかけようとしたのを見て、物乞いに扮した斥候の橋本皆助は、西側の酒屋に待機していた新井忠雄ら12人のもとへ注進に走った。

 南側の先斗町会所の原田左之助ら12人は、すでに賊の姿を発見していたので、注進を待つまでもなく、そのあとを追っていた。そして、狼藉の現場を確認すると、まず原田が抜刀して斬りかかった。

 配下の伊木八郎らも、それに続いた。土佐藩士らは、突然現れた伏兵に驚いたが、もともと戦闘をするつもりなどなかったため、慌てて西の方角へ逃げようとする。

 すると、そこへ橋本皆助の注進を受けた新井忠雄、中西昇、伊藤浪之助、今井祐次郎らが駆けつけて、双方入り乱れての乱闘が始まった。原田と伊木は、藤崎吉五郎を敵の首領格とみて、左右から猛然と攻めかかり、ついに藤崎を斬り伏せる。

 新井と今井は、宮川助五郎に深手を負わせ、今井がとどめを刺そうとするのを新井が制して捕虜とする。

 勝ち目がないとみた土佐の安藤鎌次は、自分がしんがりをつとめて食い止めるうちに諸君は逃げよと叫び、新選組の追撃を一手に引き受ける。全身に十数カ所の刀傷を受けながらも、どうにか河原町の土佐藩邸にたどり着いた安藤だったが、翌13日に絶命した。

 この安藤の犠牲によって、あとの5人は現場からの脱出に成功している。5人もの逃亡者を出してしまったことは、新選組にとっては失策というほかなかった。

 その大きな原因となったのは、斥候の一人・浅野薫(藤太郎)が恐怖におじけづいて、大石鍬次郎ら10人が詰めていた橋東の町家へ注進するのが遅れたことにあった。浅野が任務をまっとうしていれば、3方向からの挟撃が可能であったのに、連絡の遅れた大石らは、戦闘に加わることさえできなかったのだ。

 浅野は、池田屋事件にも参戦している古参隊士だったが、この失策によってすっかり臆病者扱いされるようになり、のちに隊を追放されることになる。

 新選組にとっては、物足りない結果に終わった三条制札事件であったが、狼藉者を駆逐したことで、どうにか幕府の面目を保つことはできた。以後、制札に手をかけるような命知らずは現れなくなったのである。