国の未来を憂い、混乱する幕末京都で東奔西奔した新選組。
しかし、その勇姿とは裏腹に、隊規に違反した者を次々に
粛清するなど凄惨な内部抗争を繰り返した。
“新選組”拝名直前に起きた筆頭局長暗殺事件、
隊内最大にして最後の粛清・七条油小路事件、
そして、油小路の復讐劇・近藤狙撃事件まで新選組の裏歴史をひも解く。

真っ裸の芹沢は
屏風で動きを封じられ刀を突き立てられた!

文久3年(1863)8月18日の政変をへて政局が落ち着きを取り戻しつつあった9月16日、京都の花街・島原の角屋で壬生浪士の大宴会が開かれている。「会津候のお手当で」というから、時期からみても政変への出動に対する慰労会だったのだろう。

 当日はあいにくの雨天だったが、午後6時ごろになると巨魁局長の芹沢鴨は、腹心の平山五郎と郷里芹沢家以来の家来・平間重助とともに席を立ち、屯所のある壬生に戻った。土方歳三、沖田総司らもこれに同行している。
 芹沢は平山、平間、そして土方とともに、屋敷の一部を屯所に提供する八木家の母屋で酒宴を開いた。呼んであった芹沢の愛妾・お梅、平山と平間のそれぞれの馴染み、桔梗屋の小栄と輪違屋の糸里を交えた愉快な席となり、土方はしきりに芹沢らに酒をすすめた。3人を酔いつぶしてしまわなければならないからだ。

 八木邸は、東から西へ式台のついた4畳の本玄関、6畳の中の間、10畳の奥の間と続き、縁側をへて中庭がある。

 やがて土方は座を開くことを提案し、奥の間に屏風を立てて北側に芹沢とお梅を、南側に平山と小栄を、西側の縁側寄りに4人の枕が並ぶように床につかせた。芹沢はぐでんぐでんに酩酊し、平山などは人に担がれたことすら気がつかない有様だったという。平間は糸里とともに本玄関南隣りの4畳半に入った。

 土方もいったん八木邸を辞去したが、深夜零時ごろになって密かに母屋に戻り、芹沢らが熟睡していることを確認するとまた静かに出て行った。

 八木家が屯所に提供したのはあくまで坊城通に面していたとされる離れ座敷ながら、このころには芹沢らが寝入った母屋の利用もすでに日常化していたようだ。当日は当主の源之丞が外出中で、その妻のマサと為三郎ら2人の息子が在宅しており、マサから聞いた当日の様子を為三郎が語り残している。

 抜刀した覆面黒装束4人が八木邸に忍び入ったのは、土方が去ったわずか20分後のことだった。芹沢の高いびきが聞こえており、姿形から判断したのだろうが、沖田総司、原田左之助のほか、山南敬助の姿もあったという。加えて土方の4人だったのだろうか。

 永倉新八はその聞き書きで、原田の代わりに藤堂平助の名前を挙げている。また、局長の暗殺という秘密裏にことを運び、また他言無用を貫く必要のあるこの行動に、運命共同体ともいえる近藤勇の門人が選抜されたと考えれば、井上源三郎であっても不思議ではない。

 マサは、「どかどかッ」という刺客が乱入するような足音と、「あッ」という物凄い声を聞いたという。しかし、せっかく熟睡させた標的を目覚めさせるような侵入方法をとったとは考えにくい。

 4人は密かに2人の枕元に到達し、同時に襲いかかったのだろう。土方と沖田は芹沢と平山の間にあった屏風を芹沢にかぶせ動きを封じたうえで、その上からめった刺しにし、山南と原田は平山の首を一気に斬り落とした。平山はおそらく目覚める暇もなかったに違いない。

 芹沢は刀を突き立てられながらも、屏風下から這い出し、部屋に面する縁側沿いに南の6畳間に逃げ込もうとし、入口付近に置いてあった文机につまずいた。そこに芹沢を追った土方、沖田の乱刃を浴び、ついに絶命する。マサの聞いたのは、逃げる芹沢とこれを追う土方、沖田の足音と芹沢の叫び声だったのだろう。下帯もなく真っ裸だったという芹沢の身体には無数の刀傷があったが、肩から首にかけて大きな傷がぱっくり開いていたという。

 芹沢と同衾していたお梅も、湯文字1枚の姿で首の皮一枚を残して切られていた。芹沢とともに屏風上から刀を突き立てられ瀕死の状態にあったところ、これを見かねた山南らがとどめを刺したのだろう。ちょうど小用に立っていた小栄に対しては、部屋に戻らずこの場を去るように命じたという。

 芹沢らの遭難に気付いた平間が、刺客を捜して家中を走り歩いたがすでにその姿はない。