国の未来を憂い、混乱する幕末京都で東奔西奔した新選組。
しかし、その勇姿とは裏腹に、隊規に違反した者を次々に
粛清するなど凄惨な内部抗争を繰り返した。
“新選組”拝名直前に起きた筆頭局長暗殺事件、
隊内最大にして最後の粛清・七条油小路事件、
そして、油小路の復讐劇・近藤狙撃事件まで新選組の裏歴史をひも解く。

壬生浪士内において
芹沢は絶対多数の支持を得ていた!


 8月18日の政変後の屯所の様子が伝わっている。長屋門の脇に「松平肥後守御預 浪士宿」の看板が掲げられ、さらにその奥の玄関に下がる2枚の御簾には、それぞれ「尽忠報国」、「いざさらば 我も波間に漕ぎ出でて あめりか舟を打ちや払わん」と掲示されていたという。

「新選組」の隊名は、8月18日の政変の功により壬生浪士に与えられたものだったが、政変後もなお、「浪士」を名乗っていたことがわかる。命名は、おそらく彼らが政変による褒美を受けた9月25日付けのことだろう。芹沢の死後、9日目のことだった。新選組の名を知らずに死んでいった可能性が高い芹沢だが、はたして粛清されるべき悪だったのだろうか。

 玄関の「尽忠報国」は、この時期、具体的には「尊王攘夷」を意味する。芹沢が強く影響を受けた水戸藩が先導し、また芹沢自身もその運動に参加して確かな実績を作っていた。また、「いざさらば」は、尊攘思想の象徴ともいえる水戸藩主徳川斉昭が詠んだものだった。

 そもそも壬生浪士の母体になった浪士組は、将軍の指揮のもと、天皇の求める攘夷戦への従軍を目的としていた。壬生浪士結成の本旨も尊王攘夷だったのだ。

 8月18日の政変の直前、12日から13日にかけて芹沢は壬生浪士を率いて御所に程近い中立売通葭屋町にある生糸商・大和屋を焼き討ちしている。

 島原の角屋で乱暴を尽くした揚げ句、主人に謹慎を言い渡すなど、芹沢の悪行は数々伝えられる。大和屋焼き討ちは、その象徴ともいえる事件だが、外国との交易により生糸の価格を高騰させた大和屋庄兵衛は、このころ頻発していた天誅の予告状が届くような存在でもあった。焼き討ちは壬生浪士の本旨である攘夷の行為にほかならず、生活に窮した庶民も、拍手喝采を送った。

 しかし壬生浪士を預かる松平容保は京都守護職として、この行動を見過ごすわけにはいかない。事件直後に近藤を呼び出し、芹沢の「捕縛」を命じたのだった。

 壬生浪士のうち政変への出動者は52人、焼討事件への参加者は36人と記録される。残りの16人の焼き討ちへの参加意思は不明だが、永倉新八が芹沢の死を、心ある者は「国家的損失」と見ていた、と語っているように、壬生浪士内において芹沢は絶対的な支持を受けていた。

 近藤勇は池田屋事件の直前、このまま攘夷の命令が下らないならば新選組を解散させてほしいと幕府に願い出ている。芹沢派と近藤派とで攘夷というその本旨に大きな隔たりがあったわけではない。

 芹沢暗殺事件は、一組織における少数派による多数派の駆逐という図式が透けて見える。