国の未来を憂い、混乱する幕末京都で東奔西奔した新選組。
しかし、その勇姿とは裏腹に、隊規に違反した者を次々に
粛清するなど凄惨な内部抗争を繰り返した。
“新選組”拝名直前に起きた筆頭局長暗殺事件、
隊内最大にして最後の粛清・七条油小路事件、
そして、油小路の復讐劇・近藤狙撃事件まで新選組の裏歴史をひも解く。

「奸賊輩(卑怯者、野蛮人)」と叫んで息絶えた伊東甲子太郎

 

 慶応3年(1867)11月18日午後、御陵衛士頭の伊東甲子太郎は、近藤勇から醒ヶ井にあったその妾宅への招きを受けている。国事について意見を求められたとも、御陵衛士から新選組に依頼してあった活動資金の用意が整ったためとも伝わるが、はたして下僕ひとりを連れた伊東が近藤の妾宅を訪れたのは夕刻のことだった。

 妾宅には近藤はもちろん、土方歳三、原田左之助、山崎烝ら幹部隊士が顔を揃え、また酒席の準備も整えられていた。午後8時半ごろに妾宅を辞去した伊東だったが、銘々から勧められるままに盃を干しており、かなり酔いが回っていた。

 酔い覚ましにと勧められた駕籠を断った伊東は、覚束ない足取りで醒ヶ井通を北上、木津屋橋通を東に進んだ。謡曲「竹生島」を口ずさんでいたともいう。

 突然、通り南側に連なる板塀の隙間から槍が繰り出され、伊東の首を貫いたのは、南北にはしる油小路に差しかかった時のことだった。

 さらに斬撃が瀕死の伊東を襲う。抜刀してこれをかわした伊東だったが、油小路をわずかに北上した本光寺の門前で力尽き、「奸賊輩」との言葉を残して斃れた。

 伊東の暗殺に成功した新選組は、すぐさま御陵衛士を殲滅するための準備を開始した。

 御陵衛士をおびき出すため、屯所の月真院に伊東遭難を伝える伝令を走らせる。また、伊東の遺体を引きずり運んだ七条油小路の辻に、永倉新八、原田左之助率いる数十人の隊士を潜伏させた。

「何者かが先刻、伊東氏に深手を負わせたので、速やかに迎えに来てほしい」との連絡が御陵衛士のもとに到着したのは午後9時半過ぎのことだった。そのとき、屯所に居あわせたのは、三木三郎、篠原泰之進、服部武雄、藤堂平助、加納鷲雄、毛内有之助、富山弥兵衛の7人。他に3日前に隊長中岡慎太郎が暗殺されたばかりの陸援隊士橋本皆助が御陵衛士を訪ねていた。

 服部は「敵は新選組に違いないから、甲冑を着用すべき」と主張したが、「もし新選組と戦うことになれば多勢に無勢で勝ち目はない。甲冑を着たまま討死すれば後世の笑いものとなる」との篠原の意見に、みなが平服のまま出かけることになった。

 伊東を収容するための駕籠1挺を手配した8人が、七条油小路に駆けつけたのは、午前零時をまわるころだった。

 辻には伊東の変わり果てた姿があった。現在の暦になおせば12月13日にあたる。寒風にさらされ、伊東の血濡れた仙台平の袴は凍って板のようになっていたという。

 落胆の御陵衛士が、伊東の遺体を駕籠から転がり出ないよう、縄を使ってようやく納めたときだった。駕籠の垂れを引き下ろした藤堂平助は、背後の暗闇から突然の一刀を浴びる。振り向きざま二の太刀をまともに食らった藤堂は、刀を抜くこともできないままに即死した。
 藤堂の顔面に残された傷は、鼻から口にかけて長さ21センチ、その深さは6センチに達するものだったという。

 藤堂が斬られると同時に一発の銃声が轟く。新選組の攻撃開始の合図だった。
 辻の南から20人ほど、西から15人ほど、足音もなく現れた新選組は、一様に黒装束を着用し、頭部は眼出し頭巾に鉢巻き、たすき掛けして草鞋ばきといういでたちだったという。もちろん黒装束の下には鎖帷子を着込んでいたに違いない。鉢巻きも鉢金入りのものだったろう。

 彼らの中には、龕灯提灯を手にする者もあった。懐中電灯のような照明器具で照らされる者から、龕灯提灯を手にする者の姿は見えない。

 抜き身の槍刀を携えた影は、無言のまま残る7人に襲いかかる。驚きつつも覚悟はしていた御陵衛士だったが、ひとりにつき4、5人の敵を引き受けなければならなかった。

 正面の敵と対峙していた毛内だったが、背後から永倉新八に斬りつけられ、さらに別隊士に胴を薙ぎ払われた。倒れたところに乱刃をうけ絶命する。辻の北東にうつむけで斃れていた毛内の背中には無数の傷があり、胴の傷からの出血が夥しかったという。

 乱戦のなか、まず富山が戦場からの脱出に成功し、三木、篠原らもこれに続いた。そんななか、独り踏みとどまったのが服部だった。

 合図の銃声に、「卑怯なる賊徒等、発砲するとは」と大声で罵りざまに抜刀、大刀と脇差を同時に構えた。

 大柄で剛力だった服部は、剣術にも秀で二刀流の達人だった。

 複数の龕灯提灯に照らされ、相手の姿がよく見えない。持参してきた提灯を腰に差して明かりをとり、油小路東側の民家に寄って背後からの攻撃を封じた。

 3尺余の大刀と脇差で散々に新選組を斬り立てた服部は、8、9人を負傷させたという。屯所を出発時、平服でと確認しあった御陵衛士だったが、服部の防寒着には鎖が縫い込まれていたことも、この獅子奮迅の戦いを可能にしていた。

 苦戦の新選組は、服部の大刀が折れたのを機に一気に総がかりで攻めかけ、とどめは原田の槍が刺した。

 斃れてなお、服部は新選組から斬りつけられた。遺体は「五体散々離れ離れ」の状態となったが、その手は刀を握り続けていたという。

 伊東ら4人の遺体は数日間そのまま路上に放置された。もちろんさらに御陵衛士をおびき寄せるためだったが、結局、彼らが姿を見せることはなかった。