国の未来を憂い、混乱する幕末京都で東奔西奔した新選組。
しかし、その勇姿とは裏腹に、隊規に違反した者を次々に
粛清するなど凄惨な内部抗争を繰り返した。
“新選組”拝名直前に起きた筆頭局長暗殺事件、
隊内最大にして最後の粛清・七条油小路事件、
そして、油小路の復讐劇・近藤狙撃事件まで新選組の裏歴史をひも解く。

伊東らの暗殺から約1ヶ月後
御陵衛士の残党は仇討ちを決行

 

 油小路事件から21日後の慶応3年(1867)12月9日、王政復古により明治新政府が誕生した。新政府との摩擦を避けるため、徳川慶喜ら旧幕府勢力は京都から大坂に拠点を移し、新選組もまた16日に、京都の南に位置する伏見の旧奉行所に入った。

 一方、伊東甲子太郎らを殺害された御陵衛士の残党は、事件ののち薩摩藩を頼り、その伏見屋敷に匿われていた。

 新選組への復讐の機会を窺っていた彼らは17日の夜、思いがけない情報を入手する。暗殺の直前、伊東が訪れた京都醒ヶ井の近藤勇の妾宅で、肺結核を患う沖田総司が隊から離れて療養しているというのだ。

 これを復讐の絶好の機会と捉えた阿部十郎は、内海次郎、佐原太郎とともに、18日未明にこの妾宅を襲撃している。しかし、沖田はその直前の17日夜、旧奉行所に落ち着いた新選組からの迎えで妾宅を去っていたのだった。

 沖田の襲撃に失敗し、落胆の阿部らだったが、再度の復讐の機会はすぐに訪れた。その日の午後、寺町で武具の品定めをしていると、偶然にもその店舗前をはしる伏見街道を、京都での用事を済ませた近藤勇の一行が通りかかったのだ。

 阿部らはひそかに間道を走って薩摩藩邸に戻り鉄砲2挺を調達、さらに居あわせた加納道之助、富山弥兵衛、篠原泰之進を加えた6人で伏見街道を北上、近藤を待ち伏せた。

 島田魁ら3人の隊士を護衛に、馬丁に轡を取らせた近藤がその右肩に激しい衝撃を受けたのは、南下してきた伏見街道が墨染を過ぎ、丹波橋筋と交差する付近でのことだった。

 すでに日没が迫る時刻だったが、民家の障子の影から近藤に狙いを定めた2発のうち、富山が引き金を引いた弾丸が命中したのだ。

 阿部らは刀槍を手に、不意を突かれて騒然とする近藤一行に殺到したが、護衛の島田らは咄嗟に馬の尻を刀の背で叩いて駆けさせ、窮地の近藤を脱出させている。

 流血を滴らせた近藤が旧奉行所に辿りつくと、永倉新八が隊士を率いて遭難現場に急行したが、すでに阿部らの姿はない。ただ襲撃により討死にした護衛隊士と馬丁、2人の遺体が横たわっていた。

 近藤の銃創は、医師の診断によれば、「右側の鎖骨上より、上斜脊椎の傍らに貫」くもので、のち砕けた骨片を取り除く手術を受けるほどの重傷だった。

 事件の2日後、近藤は治療のため隊を土方歳三に託し、沖田とともに大坂に下っている。
 鳥羽伏見の戦いが勃発するのは、そのわずか13日後のことだ。