国の未来を憂い、混乱する幕末京都で東奔西奔した新選組。
しかし、その勇姿とは裏腹に、隊規に違反した者を次々に
粛清するなど凄惨な内部抗争を繰り返した。
“新選組”拝名直前に起きた筆頭局長暗殺事件、
隊内最大にして最後の粛清・七条油小路事件、
そして、油小路の復讐劇・近藤狙撃事件まで新選組の裏歴史をひも解く。

伊東の「新選組暗殺計画」は近藤らによる謀略だった!?


 文久3年(1863)9月に水戸系の尊攘論者にして巨魁局長の芹沢鴨が暗殺されたのちも、新選組の本旨が尊攘にあることに変わりはなかった。翌元治元年(1864)5月の時点においても、攘夷戦への強い従軍意欲をみせている。

 そんな新選組に大きな変化をもたらしたのは、6月の池田屋事件だった。その後の禁門の変をへて「朝敵」となった長州藩の征討を強く意識するようになる。

 朝敵の征討が、新選組の本旨「尊王」に叶うことから、その“敵”が「外国」から「長州藩」へと簡単に移行したのだった。当時の新選組が攘夷を実行できない欲求不満状態にあったこともこれを加速させたが、征討を実施する幕府組織に組み込まれていくことにもなった。

 江戸で北辰一刀流の道場を経営していた伊東甲子太郎が尊攘の志を胸に新選組に加盟したのは元治元年10月、尊攘集団から幕府の一部隊へと新選組がその姿を変貌させる、まさにその過渡期だった。

 長州征討に備えて組織の増強をはかる新選組は、9月に局長近藤勇みずから江戸にくだって加盟者を募っている。

 近藤と面談のうえ、国事に尽くすことを決意した伊東は、実弟、門弟、同志にも呼びかけ、その年の干支「甲子」にちなんで大蔵から甲子太郎と改名している。

 伊東らの加盟後、新選組は長州征討への従軍態勢を整えたが、長州藩は11月に家老3人を切腹させ恭順の意を表し、長州征討は一応の決着をみた。しかし、幕府軍が解兵した12月、長州藩内では高杉晋作ら反幕勢力が蜂起し、翌慶応元年(1865)3月には藩政の実権を握るまでになる。

 幕府内でも長州再征への声が高まり、9月に勅許されると翌10月には幕府から長州藩に対する訊問使が派遣されることになった。近藤勇は願い出て随行を許され、伊東もまたこれに同行したが、長州への入国は果たせなかった。

 翌慶応2年(1866)1月、再び長州を訪問する幕府使節に近藤とともに同行した伊東は、独自の活動を開始している。加盟前からの同志である篠原泰之進とともに、幕閣を相手に長州藩の寛典論を展開したのだった。

 伊東は、幕府が長州藩の罪を問うことなく寛大な処置をとれば、国はまとまり政局も安定する、と考えるようになっていた。伊東がこの論を翻すことは生涯ない。国内を混乱させる長州再征に反対した伊東だが、幕府そのものまで否定している訳ではなかった。伊東はいわゆる「討幕派」ではなかったのだ。このころから伊東は、長州再征を是と頭から信じて疑わない近藤、土方が実権を握る新選組からの分離を模索し始めている。

 幕府と長州藩の交渉が決裂し、慶応2年(1866)6月に始まった長州戦争は終始幕府軍の不利に進んだ。幕府は7月に病没した将軍家茂の服喪を理由に8月にひとまず休戦としたが、軍事改革に着手し、さらなる再戦に備えることになる。

 9月、近藤と土方に持説の長州寛典論を説いた伊東だったが、幕府絶対論との距離が縮まることはなく、ついに新選組からの分離を提案するまでになった。新選組は隊士の脱退を許さなかったが、伊東は「脱退」と「分離」は一線を画すものと考えていたようだ。伊東が新選組からの分離に向けて行動を開始したのは、12月に孝明天皇が崩御した直後のことだった。孝明天皇の陵墓を守衛する「禁裏御陵衛士」の拝命を働きかけるよう同志に指示すると、みずからは翌慶応3年1月から九州への遊説に旅立つ。8月18日の政変で京都を追われた三条実美らの衛士に新選組からの分離を説明するためだった。

 3月、伊東が京都に戻ると、御陵衛士を拝命したとの朗報が待っていた。朝廷からの「命令」の効果は絶大だった。近藤らも隊の力を削ぐことになる、この分離を了承せざるをえなかったが、分離に際して以後、両組織間での隊士の移籍は認めないとの約定が取り決められた。

 この約定を巡って大事件が発生したのは6月のことだった。新選組に幕臣への取り立てが内示されると、尊王の観点からこれを断固拒否する佐野七五三之助ら10名は、伊東に御陵衛士への受け入れを要請した。

 新選組との約定からこれに応えることができない伊東は、会津藩に新選組脱退の仲介を依頼するよう提案する。これを受けて13日に嘆願書を提出した10人だったが、脱退がかなわないことを悟ると14日、佐野七五三之助、茨木司、中村五郎、富川十郎の4人は京都守護職邸の一室で切腹して果てたのだった。

 新選組にとって御陵衛士は隊の方向性に疑問を抱く隊士の格好の“逃げ場”であった。特に10月の大政奉還後は、幕府の存在を絶対とする新選組の方向性に疑問を抱きはじめた隊士もいたことだろう。そもそも新選組への加盟の原点は、国事に尽くすためだからだ。

 幕府の一部隊として強い組織を維持していく必要がある新選組幹部にとって、組織の崩壊を招きかねない御陵衛士の存在そのものが脅威だったに違いない。

 御陵衛士から斎藤一が持ち帰った、伊東の近藤暗殺計画が油小路事件の引き金になったとされている。しかし、伊東をはじめ御陵衛士に新選組に敵対する意思は毛頭なかった。だからこそ、あの日、招きに応じた伊東は、ひとりで近藤のもとを訪れたのだ。

 伊東ら御陵衛士が企てたとされる近藤暗殺計画は、新選組の最高幹部が作り上げた、隊士たちに御陵衛士殲滅を納得させるための方便だったと考えられないだろうか。