「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

信長が娘婿に迎えた武将はなぜ死んだのか

 

「限りあれば 吹かねど花は 散るものの心短き 春の山風」

蒲生氏郷(うじさと)の辞世として有名な和歌である。
氏郷は、近江(おうみ)の蒲生(がもう)郡日野の豪族・蒲生賢秀(かたひで)の子として生まれ、織田信長が近江を支配するとその人質となり、器量を認められて信長の次女・冬姫の婿となった。

信長の死後、羽柴(のち豊臣)秀吉に仕えた氏郷は、天正18年(1590)8月に伊勢松阪12万石から陸奥(むつ)会津(あいづ)42万石に転封され、伊達政宗と徳川家康を睨む役割を任せられた。文禄元年(1592)に始まった「文禄の役」(朝鮮遠征)のために肥前名護屋に在陣したが、この時発病し、文禄4年(1595)2月7日、伏見屋敷で世を去った。まだ40歳の働き盛りの死である。
彼の死は、その立場の重要性、そして織田家との深い関係から、当時からさまざまに取り沙汰されたらしい。

氏郷の死から80年後に編纂された会津藩の地元伝承史料『会津旧事(あいづくじ)雑考(ざっこう)』は「黄疸」と記すとともに、「太閤鴆之云」とも説く。これは、太閤秀吉が鴆毒(ちんどく)(空想上の鳥の羽の毒)を仕掛けた、という意味で、同時期成立の軍記物『会津四家合考(あいづしけごうこう)』も毒殺としている。

さらにその直後に書かれた説話集『続武者物語』になると、「天下を狙っていた石田三成が、その障害となる徳川家康を倒すため、北隣の会津に親しい仲の上杉景勝(かげかつ)を移そうと考え、盟友の上杉家執政・直江兼続(かねつぐ)と謀って会津領主の氏郷を茶会に招き毒入りの茶を飲ませた」と話が発展しているのがおもしろい。