「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

野心に燃えた氏郷の死因は毒か?病か?

 

信長も認めた実力者・蒲生氏郷は若くして突然に死んだ。その死は当時、世の疑念を呼んだ。


だが氏郷を実際に診察した当時の名医・曲直瀬道三(まなせ・どうさん)の診療録『医学天正記』によれば氏郷は名護屋で下血し、顔が黄ばみ、肉が落ちて手足がむくむという症状が出ており、若いからまだ食欲はあるが、今後手足にむくみがでれば死に至るだろう、と早くから予想されている。それほど長期にわたってじわじわと体をむしばんでいく毒が当時あったとも思われないから、これはやはり現在推測されているように癌による死だったのではないだろうか。


現在一般に言われているように、氏郷は長患いの末の死で、毒殺は憶測に過ぎないとしておこう。「限りあれば…」で有名な辞世の歌(写真参照)は、暗殺によって死を迎える無念を歌ったものではなく、病魔を山風に喩えたものなのだ(余談ながら、三成による毒殺否定論者の中には「三成は氏郷の死後改易された蒲生家の牢人を多く召し抱え、召し抱えられた者たちは関ヶ原合戦で三成のために命を捨てて戦ったからだ」という主張が見られるが、戦力向上に熱心だった三成が優秀な蒲生牢人を雇うのは当然の成り行きだったし、当時の武士は今現在知行をくれる主君に忠義を尽くすのが当たり前だった、という事実を忘れてはならない)。


ただ、氏郷の死に他人の関与があったと考えたい人が多かったのは、この時、道三と氏郷の主治医・宗叔に診(み)たての対立があった事、それに先に書いたようにその立場と織田家とのつながりが豊臣関係者にとっては目障りだった事が大きな原因となっているのは間違いない。


説話集『常山紀談(じょうざんきだん)』には、大坂城で会津への大幅加増転封を言い渡された時、秀吉の御前を下がって柱に寄りかかって涙ぐんでいる氏郷に対し、知人が「うれし泣きですね」と話しかけると、「小国でも京の近くならば天下を獲る事もできるが、いなかでは何もできない」と答えたというエピソードが収録されている。大志がムダになったと悔し泣きするほどの野望が、氏郷にはあったというわけだ。一方で同書は、伊達政宗が邪魔な氏郷を除こうと暗殺者を送り込んだ事があったという逸話も載せている。氏郷の周囲には、深い暗闇も有ったと想像させてくれる記事ではあるだろう。


彼の死後、蒲生家は子の秀行(ひでゆき)が継いだが、すぐに改易され、その跡には上杉景勝が越後から移されている。