「富岡製糸場」や「明治日本の産業革命遺産」がユネスコ世界遺産に認定されるなど、近代遺産の価値があらためて見直されています。
 そこで、本稿ではもうひとつの近代遺産「戦争遺跡」のなかから、大日本帝国最大(※)の要塞の跡を案内します。
※面積あたりの砲門数において

帝国随一の火力密度を誇った砲台網

カノン砲を備えていた友ヶ島第二砲台。浸食や戦後米軍による爆砕などで崩壊が大きい

 

 徳川幕府が諸藩に命じて台場を作らせたのと同じように、明治政府は海に囲まれた日本の国防を担う重要な戦力として、沿岸要塞の整備を急いだ。なかでも重要とされた地点は東京湾口、紀淡(きたん)海峡、下関海峡で、この3ヶ所を守る要塞を築造することが明治12(1879)年に早くも決定する。

 大阪の入り口である紀淡海峡を守る由良要塞(和歌山県和歌山市ほか)は2番目に重要とされたが、清国との緊張が強まったことから対馬と下関の要塞の建設が優先されることとなった。そして、それらに遅れること2年。明治22(1889)年に着工された重要な砲台は翌年に、もっとも遅い砲台でも日露戦争の開戦までにすべてが竣工している。

 由良要塞で特筆すべきは面積当たりの砲門数で、東京湾要塞、下関要塞を凌いでいちばんの火力密度を誇っていたことだ。あわせて29の砲台と堡塁があり、砲門の総数は170以上と、ほぼ東京湾要塞と同じ数を備えていた。その後いくつかの砲台は整理されたものの、昭和20年の終戦までのおよそ半世紀もの間、海峡突破を図る敵艦船に睨みを利かせていた。

 由良要塞は海峡を挟んで広い範囲にわたっており、地区は大きく4つに分けられる。8つの砲台と3つの堡塁からなり要塞司令部が置かれた兵庫県淡路島の由良地区、本土の紀伊半島に5砲台と3堡塁を配し、要塞砲兵連隊(後に重砲兵連隊)が駐屯した和歌山県の加太(かだ)・深山(みやま)地区、海峡に浮かぶ小島に5つの砲台と1つの堡塁を置いた友ヶ島地区(※下地図参照)。
 それに4つの砲台で鳴門海峡を守った鳴門地区(はじめは鳴門要塞)だ。これらが射界を重ね合わせて死角をなくし連携して防衛した。

由良地区、友ヶ島地区、加太・深山地区、そして鳴門地区(地図外)の4エリアに置かれた砲台が、大阪防衛を強固なものにした
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