弥生時代の終わり、乱れる倭国を救ったのは女王卑弥呼だった。大陸から稲作と金属器が伝来した弥生時代、人々の暮らしは激変。稲作農耕を中心とした集落は、やがて「国」へと発展していった。王が誕生し、世は乱れて武器を用いたはげしい戦いもまき起こる。そんな激動の時代の人々の暮らしぶりを詳解する。

 

 

 

目的により区別された建物
弥生時代の集落の風景 

 この時期の住まいの中心は縄文時代から続く竪穴(たてあな)式建物であった。地面を掘り下げた半地下式の住居で、柱を立て、屋根で覆う。その周囲には雨が流れ込むことを防ぐ土盛り(周堤・しゅうてい)があり、板でおさえられていたと考えられる。ステップやたてかけられた木製のはしごを使って出入りを行なった。 

 平面的な形は地域、時代によって変化する。円形、楕円形、方形などあるが、後期以降、北部九州では方形となり、近畿では方形、円形双方が混在するという違いがみられる。その中で暮らす人は、中央の炉の周りで食事やさまざまな作業をおこない、壁際は土器などの生活必需品の物置や寝間となっていた。 

 掘立柱(ほったてばしら)建物は地面を掘り込まずに柱を立て、屋根をふいたものである。よく知られる高床式建物はその一種で、高い位置に床を張ったもの。収穫したコメを貯蔵する倉庫という印象があるが、じめじめした場所では住まいでもあっただろう。出入りにははしごを使う。 

 弥生土器には建物の描かれたものがあるが、ほとんどが高床式建物である。豊作の象徴である倉として特別な位置づけだったことが推測できる。 

 こうした建物はクギを使用せず、材の先端に突起を作りだし、別の材に開けたほぞ穴に差し込んで組み上げた。「地下の弥生博物館」として知られる鳥取県青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡では大量の建築材が出土した。建物に用いられた多様な木材の組み合わせ方( 仕口・しぐち)は、現在のものとほとんど変わらない。後期に鉄製工具が普及することにより、細かで大掛かりな加工が可能になった。 

 大規模な拠点集落では特に大型の建物がみつかる。中期後半の池上曽根遺跡では弥生時代最大級の、長辺19m以上、短辺7mの細長い掘立柱建物が集落の中心から発見された。棟を支える柱が建物の外側に建つ独特の建築スタイルで、独立棟持柱(むねもちばしら)建物と呼ばれる。後期の滋賀県伊勢遺跡では集落の中心に、柵で四角く囲まれ、大型の独立棟持柱建物が複数建つ場所がある。 

 こうした大型建物は伊勢神宮社殿の神明造(しんめいづくり)のルーツとも考えられる。しかし、用途は定かではなく、集落共同の倉庫、集会所、権力者の住居、さらには神殿などさまざまな意見が出されている。 

 こうしてみると、国の拠点集落は環濠で防御され、中央には大型建物が建ち、周辺に竪穴式建物や高床式の倉が建ち並ぶ風景が推測できる。中心部では共同のまつりが行われたり、権力者の居館があったりと特別な場所だった。水田や墓地は環濠外に作られる。人口の推測は難しいが、発見される建物数から数百人規模に達していたことは間違いないだろう。


《邪馬台国時代の生活を徹底解明! 第3回へつづく》