弥生時代の終わり、乱れる倭国を救ったのは女王卑弥呼だった。大陸から稲作と金属器が伝来した弥生時代、人々の暮らしは激変。稲作農耕を中心とした集落は、やがて「国」へと発展していった。王が誕生し、世は乱れて武器を用いたはげしい戦いもまき起こる。そんな激動の時代の人々の暮らしぶりを詳解するシリーズ最終回。
 

社会を変えた新素材と「倭国乱」の発生 

 農耕社会の成立と本格的な戦争の始まりとが密接にかかわることは、世界史的な通例である。日本列島も例外ではなく、人を殺傷するための武器と防御された集落が弥生時代に出現する。 

 当初、武器は石製であったが、前期末・中期に金属器の剣、矛(ほこ)、鎌のような戈(か)が登場した。また、金属製武器を模倣した石製武器も存在する。打製石鏃(せきぞく:やじり)が大型化することも、対人用として殺傷力を高める変化が読み取れる。木製の盾や鎧といった防具も出土している。 

 実際に戦死者と考えられる人骨も北部九州を中心に多数確認される。首が切り落とされた人物、骨に石剣の切先が突き刺さった人物は戦いのなまなましい犠牲者である。青谷上寺地遺跡では女性も含む100体を超える人骨が投げ捨てられた状態で出土した。銅鏃が腰骨に刺さった男性や頭蓋骨を打ち割られた女性が含まれていた。まさに後期の倭国乱のとき、戦いが皆殺しのような凄惨なレベルに達していたことをものがたる。 

 青銅器は前期末から中期初頭に剣や矛、馬具の鐸(たく、鈴)といった実用品として入ってきた。素材は大陸からの輸入に頼ったが、青銅を溶かして作りかえる鋳造技術は倭人もマスターし、北部九州や近畿で製作が始まる。時代とともに武器や鐸は大型化し、祭器として独自の発展をとげる。 

 北部九州では銅矛、近畿では銅鐸が重要視された。銅鐸は最初、吊るして鳴らす「聞く銅鐸」であったが、後期になると吊るせないほど大型化し、「見る銅鐸」となる。集落から離れた場所にまとめて埋められた状態でみつかることがほとんどで、埋める目的は依然謎である。 

 後期末に銅鐸は作られなくなり、一斉に埋められたり、破壊される。祭りのあり方が劇的に変化したためである。その原因として、卑弥呼に代表される司祭者の青銅鏡を使った新たな祭りの成立と結びつける考えもある。 

 主に祭器であった青銅器に対して、鉄器は実用品であった。するどい切れ味は劇的な作業効率の向上をもたらした。鉄斧は石斧と比べると、時間にして4倍以上の効率アップを可能にした。 

 分解したり、再利用されるため鉄器の出土量は多くない。しかし、後期には石器にとって替わるほど普及していたと考えられる。素材を輸入にたよるしかない鉄器は貴重品であり、入手をめぐる争いが「倭国乱」の原因の一つとなった。広範囲の地域が再編成され、序列化される。 

 古墳時代、大和(やまと)に王権が誕生するのはこうした争いの結果、近畿が鉄の入手ルートを確立したためと考えることができる。まさに生活だけでなく政治までを変えた新素材である。