もし、いま、この場で死ぬとしたら、悔いなく軽やかに死ねるだろうか。誰もが一度は考えたことがあるこの難しいテーマに、僧侶である小池龍之介さんは「〈いま〉という瞬間に専念していれば、完全に満ち足りて幸福であり、それゆえ何も思い残すところもない」といいます。果たして、どういうことなのか。人気の僧侶作家・小池龍之介さんがブッダの言葉から導き出される死の真理に迫ります。

「このまま死んでもいい」という幸福感

巨大な満足感を感じ取る者は、ちっぽけな快楽にはとらわれないであろう。

                              『法句経』

 修行に打ちこんでいて心身ともに充実しきっているときは、「幸せすぎて、いま、このまま死んでもいいな」、「人生に、一点の悔いもなし」と思えることが、しばしばあります。

 何にも急(せ)かされずに、じっくりおにぎりを、ひと口に百回くらい噛みしめて味わっている最中であるとか。あるいは、お寺の裏山にある草原で仰向けに寝っ転がって、青い空を目の前にそっとまぶたを閉じてゆく、安らかな瞬間であるとか。そしてまた、瞑想に専心していて、心が静けさに包まれてゆく途上であるとか、などなど。

 そういった風に心が満ち足りているとき、筆者は、「いまならこのまま死んでもいい」と思う傾向があります。

 念のために申しておきますと「死にたい」ではなく「死ぬなら死ぬでも大丈夫」ということです。

 さて、それらの体験に共通しているのは、もうこれ以上には何かを欲望する必要のない、満足感。このうえなく満ち足りて、幸福な気分になっているがゆえに、「これ以上は何ひとつなくてもいい」すなわち「死んでもOK」という心地になるのではないでしょうか。

 あいにく、その幸福感もまた諸行無常にして脆いもので、そのうち心を慌ただしくさせているうちに消えていってしまうものです。そうして心の満足度が落ちれば落ちるほど、私たちはさまざまな欲求のとりことなります。

 誰それにもっと好かれたい。もっと評価をされたい。もっと素敵な仕事がしたい。もっと良い家に住みたい。

 そしてこれらの欲求を満たしても、瞬間的に「やったぞ!」といった風情の快感刺激は走るものの、「もう何もなくても満足」といった幸福感は、決してやってこないものです。それどころか、瞬間的な快感のさざ波が去っていった後に口寂しくなり、イライラと不満になり、さらなる欲求がわいてくる。それがひたすら連続してゆくのが、私たち現代人の平均的な姿でありましょう。

 そしてこれらの欲求を満たしても、瞬間的に「やったぞ!」といった風情の快感刺激は走るものの、「もう何もなくても満足」といった幸福感は、決してやってこないものです。それどころか、瞬間的な快感のさざ波が去っていった後に口寂しくなり、イライラと不満になり、さらなる欲求がわいてくる。それがひたすら連続してゆくのが、私たち現代人の平均的な姿でありましょう。

 

次のページ ささやかな幸福をじっくり噛み締めて味わう