武田信玄像
 
 
 
覇王信長が最も恐れた武将・武田信玄。将軍足利義昭の求めに応じて上洛の軍を起こすが、その途上病に冒され、死の床につく。戦国きっての名将が、武田家の行く末を案じて遺した遺言には、乱世を生き抜く知恵が隠されていた――。

 

勝頼は決して無能な後継ぎではなかった。すぐれた武将だった。だが、信長や家康が勝頼を放っておかなかった。長篠奪還が命取りとなって、信長の容赦ない鉄砲攻撃に、家臣たちが次々に倒され、有能な人材を失ったのだ。

時に、信玄の残した負の遺産がある。

「人は城 

人は石垣 

人は堀 

情けは味方 

あだは敵なり」

信玄の言葉として人口に膾炙(かいしゃ)される。だがそれは理想に過ぎない。強かった信玄は、自国の民に苦難を与えないために、戦いはいつも国の外でした。だから領内に強固な城を造らず、人材こそが大切だと主張した。

長篠で多くの家臣を失った勝頼に、それはあまりに厳しい現実だった。

主城の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は城の備えをしておらず、逃げ城である背後の要害山城は、城域がまことに小さく、鉄砲時代の城として非常に貧弱だった。あわてて新府城(しんぷじょう、注)を築くが、防御の城塞網はお粗末だった。(続く)

(注/織田の侵攻に備えて、天正9年(1581年)、家臣の真田昌幸へ普請を命じて築城した)

 

文/楠戸義昭(くすど よしあき)

1940年和歌山県生まれ。毎日新聞社学芸部編集委員を経て、歴史作家に。主な著書に『戦国武将名言録』(PHP文庫)、『戦国名将・知将・梟将の至言』(学研M文庫)、『女たちの戦国』(アスキー新書)など多数。