「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

秀吉に利用された男 その死にまつわる怪エピソード

 

丹羽長秀(にわ・ながひで)は地味ながらも織田家の宿老(しゅくろう)として、柴田勝家(しばた・かついえ)に次ぐナンバー2の地位にあり、彼の人望と影響力は大きかった。

 

そんな長秀を、天正10年(1582)の本能寺の変以降、利用しきったのが秀吉だ。信長を襲殺した明智光秀を討って天下獲りの第一歩を踏み出した際も、長秀を前面に立て、「織田家のため」と宣伝して柴田勝家や信長の3男・信孝(のぶたか)など、覇権を争うライバルを蹴落としていった。

 

長秀はそれとひきかえに秀吉から越前一国と加賀の一部を与えられ、123万石の大大名となった。だが従属の立場に甘んじた彼はやがて病み、天正13年(1585)4月に死の床へつき、16日に死去する。

 

『丹羽系譜』によれば「積聚(せきしゅう)」という病だったらしい。
当時の名医・曲直瀬道三の『医学天正記』は、この病は「積」「塊」が胸や脇にできる、と説いているから、これは肺癌や腺癌のたぐいだろう。

 

ただこの死に関しては、京の公家・吉田兼見(かねみ)が日記に「長秀は柴田勝家の亡霊に祟られているからと、方々に祈祷を依頼した」と書いたように、長秀自身も自分に忍び寄って来た死神が、尋常ではない悪意を持っている事を感じていたのだろう。百戦錬磨の武将らしからぬおびえ方を示している。