「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。

諸記録に残された割腹自殺にまつわる怪エピソード

 

織田家の重臣であった丹羽長秀は、奇怪な死を遂げた。その事実は当時の多くの記録に残る。

 

彼が病気で死ぬのは無念だと腹を切った、と関係者からの情報を書きとめた『多聞院(たもんいん)日記』、そしてその際に腹中から石亀に似て鳥のようなくちばしを持つ虫が出てきた、と記す『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』と、彼の死の異常さは諸記録に残されている。

 

一方で、その死は秀吉のやり方に抗議するための自害だ、とする説もある。

 

これについては、秀吉が侍医の竹田法印(ほういん)に長秀の治療のために越前行きを命じた際、「先方の希望で、なおかつ私が下向を命じているのだから、何の心配もいらない」と言っているのが引っかかる。

 

この頃、秀吉と長秀の間には、秀吉のやり方をめぐって微妙な緊張感が生まれていたのではないだろうか。ひょっとすると、「勝家の祟り」のエピソードも、「次はお前が罰を受ける番だ」と秀吉に遠まわしに当てつけるためのポーズだったかもしれない。

 

旧織田家臣最大の存在であり、秀吉傘下でもトップクラスの石高を誇る長秀は、秀吉にとっては著しく邪魔な存在であった。死病にとりつかれなくても、いずれは織田信雄(のぶかつ)のように追放されるか、あるいは暗殺された可能性が高い。

 

最後に、長秀は「跡目の事はご判断にお任せします」と秀吉に遺言したが、これは「織田家同様、どうせお前の勝手にするのだろう」という強烈な皮肉かも知れない。実際、長秀の跡を継いだ子の長重は、あっという間に改易されている。