自分の老いには目を背け、若く美しいものを求める傾向は男女問わずあるもの。遠い昔、釈迦の弟子だった若く美しい尼は、自分の体を「いつかオバさんになる」どころか「すでに死体」と言い放つ。それでも食い下がらなかった男の不幸とは。人気の僧侶作家・小池龍之介さんが放つ愛の真理とは。

あなたが求めている肉体は死体のようなもの

「私の肉体は汚れに満ち、死へと近づくものであり、
 破壊されてゆく、死体のようなもの。
 この死体についてあなたは、どこを素晴らしいとお思いになりますの?
 この肉体を見てあなたは、心うばわれて、見とれておられますけれど……」

                            原始経典より

 釈迦の弟子で、比丘尼であったスバーは出家して剃髪していましたものの、その美貌ゆえに、男性から言い寄られることがしばしばあったようです。

    釈迦の原始経典には、そんな彼女に求愛して、強引に言い寄ろうとした男性と彼女による言葉のかけ合いが収録されています。冒頭に引いた、スバーの言葉は、誘惑する男性の誘い文句に対する、問い返しです。

 男は言います。
「あなたは年も若く、姿も整っている。あなたにとって、出家しているなんて相応しくないことだ。そんな、汚れた出家者用の衣などは脱いでしまい、花ひらく林のなかで、私たちは共に快楽を味わいましょう」と。

 それに対してスバーはきっぱりと、「あなたが求めている私の肉体なんて、死体みたいなものですのよ」と返しつつ、「それのどこが素晴らしいんですの?」と問う。

 すると男は、彼女の論旨を無視して、彼女の目の美しさを褒めたたえるのです。

「汚れなく、黄金にも似た、あなたの両眼をみて、私の欲望はいよいよむくむく大きくなる。清らかな眼の、長いまつげのあなたのことを、たとえ遠くに離れても思い出して忘れられない。妖精のようなつぶらな眼をしたかたよ、あなたの眼より愛しいものは、私にはありはしないのだ」と。

 彼女が「肉体とは汚れに満ちている」という釈迦の教えを説いているのに、彼は「汚れない」だの「清らか」だの「妖精のよう」だのといった、真反対のことを述べたてているあたりからして、二人の間にはまともなコミュニケーションが成り立っていないことがわかります。

 現代でも、宗教に携わる男性や女性といった近づきがたそうなもの、性的対象とはなりにくそうなもの……であるがゆえにこそ、欲望の対象となる、といった現象は見られるものですね。

 さて、彼が彼女の眼を賞讃したのに対してスバーは、「あなたは、肉体をありのままに(不浄だと)見つめることなく、肉体の真実を知らないふつうの女の人を誘惑なさいませ」と答え、続けます。

「あなたが、肉体は壊れてゆくだけで空虚なものだと知っている私の肉体をどれだけ褒めて下さっても、私の心を動かすことはできないのですわ」と。

 この肉体と肌を剥いでしまえば、その内部は誰しも不浄なものだらけ。スバーが一言っているのはまさにそのことでありまして、肉体が、物質としてありのままに見られ、幻想を剥ぎとられたとき、それには何の美しさも価値もないのだという真実です。

 ただし、おそらくいくらそのようなことを説いても、その男性の欲望を止めることはできなかったのでしょう。ひょっとすると、無理に襲いかかろうとすら、したのかもしれません。おそらくそれゆえに、とっさに彼女はなんと、自らの眼球を手で引きちぎり取り出して、こう言い放ちます。

「さあ、あなたの好きな、私の眼球を差し上げますから、眼を持ってお帰り下さいな」と。そして教典はこう続けます。「こうして、彼の欲望はすみやかに消え、彼は謝罪したのです。

「修行者よ、あなたの心が安らかでありますよう。このような振る舞いは、二度といたしません。燃えさかる火を抱いてケガをするのと同じで、このような立派な修行者に迷惑をかけて、私は毒蛇をつかんでケガをするかのように、愚かなことをいたしました。どうかお許しください」

 ええ、どんなに「清らかで汚れなく妖精のような眼」と幻想を抱いていても、その眼球というパーツだけを取り出してつきつけられたなら、いかなる幻想も欲望も、一瞬にして冷めるであろうことは、容易に想像できますね。

 

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