自分が死んだらどうなるのか? 遺言や遺産など現実的な問題から、お墓や埋葬方法、葬祭など、考え出すときりがない問題も、誰もが「自分は永遠に死なない」という妄想を抱いているからという小池龍之介さん。ブッダの言葉から導き出される「死」の真理に迫ります。

「自分は永遠に死なない」という妄想

「この私は、たしかに滅びゆく存在であり、
 必ず死するものだ」と体感しているなら、
 あらゆる怒りは消え去り、
 誰とも論争することもなくなる。『法句経』

 

「私は、死する存在である」。ふむ、おそらく誰もが、「そんなこと、分かってるよ」と思われているに、違いありません。ええ、知識のうえでは分かっていることでしょう。

 けれども、知慧のレベルで体感できているかというと、誰もがおぼつかないものなのです。体感レベルではむしろ、ほとんど誰もが実は「自分は永遠に死なない」という妄想を抱いているのです。

 私は最近、新しい葬儀についてのムック本のいちコーナーで、インタビューを受けました。その場で私は、自分の骨は墓に入れるべきだとか、散骨すべきとか、樹木葬にすべきとか、こだわるのは執着と心配事を増やし、揉め事を増やすだけ。散骨や樹木葬は別に「新しい」わけでもなく、骨への執着の別バージョンにすぎない。そう述べました。

 なぜ「散骨じゃなきゃイヤ」とこだわるのか? 
 死後自分の意識が骨の中で生き残っているかのように錯覚しているがゆえに、「暗い墓石の中にいるより、自然に帰ってゆけたほうが清々しかろう」と妄想しているからなのです。

 「他人が死ぬこと」「人が死ぬこと」「人が死んで意識が断絶すること」「人が死んだらただの骨になること」……、それは誰もが分かったつもりになっています。が、他ならぬこの自分ということになると、意識がいつまでも接続して生き続けるような、魔術的世界観を持っているのです。

 

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