《連載書き下ろし再開予告》
森博嗣『道なき未知』は、月刊誌『CIRCUS』で2012年より連載第1回がスタート。第11回まで原稿は掲載されましたが、『CIRCUS』休刊に伴い連載は休止。執筆済の第12回の原稿は未公開でしたがこのBEST TIMESで今回初公開。次回の第13回からは著者が隔週で新たに書き下ろしいたします!

 

第12回

思考の道筋

 

頭は使うものか?

 

 前回は道具の話だった。ものを作るときには、材料と道具を使う。材料というのは、作るものに姿を変える物質であって、作る行為によって材料は消費される。道具は、消耗することはあっても、それ自体が形を変えて消費されるのではなく、ものを作るときの援助をするものである。同じ「使う」でも違う意味だ。

 さて、「良い道具は、人間を鼓舞する」と書いたが、この「人間」というのは、つまり人間の頭脳のことだろう。「気持ち」とか「やる気」というものが、躰のどこにあるのか知らないが、もしあるとしたら、それは頭の中かな、と想像する。考えているのが頭だとしたら、である。

 「頭は使いよう」とか「もっと頭を使え」などと言ったりする。これは、頭で釘を打て、という物理的な意味ではなく、単に「考えろ」ということを言い換えているだけだが、どうして「考えろ」と短く簡単に言わないのだろう。たぶん、「考える」よりはもう少し「工夫しろ」というイメージが伴うことを強調したいのではないか。では、「工夫する」とは何だろう。これも、結局は「もう少ししっかり考える」というくらいの意味しかない。「長く考えろ」「考えるのを諦めるな」と言い換えても同じかもしれない。

 だいたい、「考える」という行為が、あまりにもわかりにくい。外面には表れないし、言葉にもなりにくい。説明が難しいのである。子供のときから、みんなこれで悩んでいるのではないか。「悩む」というのも、「考える」とほとんど同じような気がするが……。

 「頭を使う」といったとき、それは頭を材料として使う、頭を道具として使う、のどちらだろう? たぶん、道具に近いとは思う。しかし、頭は、本当に道具なのだろうか?

 

考える道筋はいろいろある

 

 もう少し考えよう。「考える」には、いろいろな状態がある。ぼんやりと思い浮かべるだけの場合もあれば、テストやクイズの答を導こうと集中する場合もある。

 たとえば計算問題のように道筋があって、そこを突き進むような思考もあれば、ふと思いついて、まったく別のものを発想するようなジャンプもある。

 「集中しろ」なんて先生から叱られたことがあるが、考える対象に集中するというのも、実のところ何をどう考えるのか、判然としない。

 問題文をじっと思い浮かべているよりも、使えそうなアイデアをつぎつぎと連想する方が、たぶん答に辿(たど)り着けるだろう。それは、どちらかというと「集中」ではなく「辺りをきょろきょろと落ち着きなく見回す」ような思考であって、「散漫」さの広がりこそが求められる。

 世の中には、計算では辿り着けない問題が多い。いくら地道に考えても解答が得られない。それは道が見えない状況であり、こんな状況からの思考は、遠くをぼんやり眺めて、「あそこは何だろう?」と思った瞬間にワープして新しい道を発見する、というような体験になる。

 論理的に突き進み、問題を一つずつ解決していくような思考も必要だが、それだけではない。無関係なところから連想した、突飛な思いつきが成功に導くことが非常に多いのだ。これに似た経験をしたことがある人は、きっと頷かれるだろう。

 ようするに、思考空間では、道は必ずしもつながっていない、ということらしい。これは、学校で算数や数学を学習したときに気づいたはずだ。「補助線を引けばわかる」なんて先生は簡単に言うけれど、難題の補助線を発想するには、優れた「連想力」がなければならない。

 

小説を書く思考

 

 僕は、三十代の後半になって初めて小説を書いた。その一作めを出版社に送ったら、あっという間に小説家になってしまった。それまでは、コンピュータでプログラムを組む、というような仕事が多かった。学科で一番得意なものは数学で、最もできが悪かったのは国語である。

 「どうしたら小説が書けるのですか?」とよく聞かれる。僕は、「考えたとおりに書けば良い」と答える。実際そうしているからだ。しかし、この「考える」がそもそも人によって違うのだ、ということに最近気がついた。国語や社会の問題を考えるときは、覚えていたものを思い出す、あるいは法則性に沿って選択するという「考える」だが、数学の問題を解くときの「考える」は、「発想する」が最初で、あとは「計算する」である。計算は、国語と同じで、僕は得意ではない。

 小説の執筆は、発想で夢を見るような行為なのである。「理系なのに小説が書けるの?」と言われるのだが、僕には、小説と数学は「同じ頭」を使う対象に思えるのだ。

夏の庭園はほぼ全域が木蔭。蚊もいない。 ティータイムの場所はよりどりみどり。