「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

死因は暗殺?家康の後継者争いが原因か

 

家康の信頼厚い武将、井伊直政は関ヶ原の戦いの傷がもとで、2年後に破傷風で死没する。だがその死には不自然な点が多い。そもそも2年もかけて苦しむ破傷風などあるのだろうか?

 

おまけに、寵臣で対大坂方最前衛の直政の死を聞いた家康が「病んでからの様子は」とのんきに尋ねた(『井伊家譜』)のもおかしい。実はこの時期、徳川家では家康の後継の地位を誰が得るか、の最後のかけひきが行われていたのだ。

 

次男の結城秀康(ひでやす)を支持した本多正信(まさのぶ)、4男で秀忠(ひでただ)の同母弟にあたる松平忠吉(ただよし)を推す直政、3男の徳川秀忠を支持した大久保忠隣(ただちか)らの論争は、他家を継いでいた秀康や忠吉を押さえ、一旦は秀忠が世継ぎという事で落着していた(『徳川実紀(じっき)』)。

 

だが、そんなものは家康の意向ひとつでどうとでも変わる。自分の娘婿である忠吉を支持する直政の存在は、彼が徳川家随一の武将で政略にも長じているだけに、反対派にとっては脅威だったに違いなく、直政は暗殺された可能性も否定できないのだ。

 

後ろ楯を失った忠吉の立場は弱まり、翌年4月秀忠が朝廷から正式な後継者と認定されている。